長唄の弾き唄い

 三味線を弾きながら唄を唄う事を「弾き唄い」といいます。フォーク・ギターやピアノを弾きながら歌うのを「弾き語り」といいますが、それと同じ事で、要するに
「歌い手が自分で伴奏しながら歌う事」
ですね。なんてわざわざ説明するまでもないような、これは「やって当たり前の事」ですし、長唄の演奏家にとっては稽古の過程での必須のものでもあります。
 ところが趣味で三味線をやってる人の場合、弾き唄いをせずに稽古してる事が多いようなのです。
 もちろん、弾き唄いを「したくない」というのなら無理にでもする必要はないのかも知れませんし、近所迷惑や家人の不評等の事情があって気がひけるという人もいるのでしょうけれど、三味線は弾き唄いで稽古した方が楽しいに決まってる(と私は思う)ので、長唄の弾き唄いについて、ちょっと色々書いてみたいと思います。

*)ちなみに;
「稽古」には
・自分自身のための練習(曲を浚うとか)
・弟子に稽古を付ける
という二つの場合がありますが、私は素人ですから、他人に稽古を付ける立場にはありません。また私は、唄方ではなく三味線が専門です。ですのでこのページに書く内容は、
・三味線方が
・曲を浚う時のための弾き唄い
についての話しが中心となります。

ちなみにの2;
洋楽の曲、あるいは洋楽風の日本語歌曲を洋楽器で伴奏しながら歌うのは、弾き語り。ですが長唄のは弾き唄い。それはなぜかというと、江戸期三味線音楽には色々なジャンル(流派)があるけど、大まかに「語りもの」と「唄いもの」の二つに分類される。「語りもの」とは「浄瑠璃」の事であり、流派名でいうと
・義太夫・常磐津・清元・新内等々
一方の「唄いもの」は、
・長唄・小唄・端唄等々
それで、三味線を弾きながら歌う場合、
・語りもの→弾き語り
・唄いもの→弾き唄い
と呼び分けてます。

---------------------

確実に暗譜するための「弾き唄い」

 三味線音楽の諸流派のうち劇場音楽と呼ばれるもの、それはつまり歌舞伎や踊りの会の伴奏を務める、
・長唄
・義太夫
・常磐津
・清元
等々。これらはほぼ全て、歌唱と楽器伴奏が分業制になってます。ですので劇場系三味線音楽の演奏家が、お客様の前で弾き唄い/弾き語りを披露するという事はまずありません。長唄の演奏家にとっての弾き唄いとは「稽古のためのもの」です(もちろん自分一人の楽しみのためにする事だってありますけど)。

小唄・端唄や地歌・箏曲などの室内音楽的な流派では、弾き唄いで本番を勤めるのが基本。また、かつて義太夫が寄席に出演していた頃は、弾き語りで上演する場合もありました。

 そして長唄とは器楽ではなく歌曲であり、三味線は唄の伴奏のための楽器です。前弾き(イントロ)や合方(間奏)などの器楽的な部分も少しありますが、三味線の役割の大部分は「唄の伴奏を務めること」。なので、三味線弾きが一人で稽古する時も、常に唄と三味線の関係を意識する必要があります。唄と三味線とを組合わせた状態で稽古しないといけない。けれど、誰か親切な唄方さんが自分の稽古のお相伴に唄ってくれる、なんて事はあり得ませんから、三味線弾きが稽古をする時は、自分で弾き唄いをするしかないわけです。

 三味線弾きが曲を浚う目的は、もちろん技術的に難しい個所を弾けるよう練習するというのもありますが、一番重要なのは「曲を暗譜する事」です。長唄一曲の演奏時間は15〜30分くらい。本番はこれを全て暗譜で演奏しなくてはいけません。

それを1日に1曲だけ弾けば良いというのではなく、踊りの会の伴奏の仕事なら1日の内に何曲も弾くわけです。例外的に、新曲とか超稀曲の場合は譜を見ながら演奏する場合もあります。

 ですので三味線弾きにとっては、暗譜能力の良し悪しというのは非常に重要な問題です。そして、曲を暗譜するための最も確実な方法が「弾き唄い」なのです(と私は考えます)。弾き唄いをする事で、
・その曲の詞章(ことば)
・詞章に付けられた唄の「節」
・歌の節を伴奏するための三味線の「手」
この三つの要素を一揃いのものとして、これらの「組合わさり方」を記憶するわけです。

 前弾きや合方は唄のない部分ですから、三味線のみで音楽として成立するように、いわば器楽的に作られてる場合も多いので、この部分なら洋楽の曲を暗譜するための方法、例えば、
・何度も弾いたり聴いたりしてるうちに自然に憶えるとか、
・曲の構造を分析し、理詰めで把握する。
等で暗譜するのも容易ですけど、唄の伴奏の方の三味線の「手」は、とくに何の意味も成さないような、あまり特徴的ではない音型が大半です。なので、これを洋楽の方法で暗譜するのはとても大変です。しかも長唄一曲中の大部分は、その憶えにくい唄の伴奏部分なのですね。

 しかしその、長唄とは曲中の大部分が「際立った特徴のない」「憶えにくい」音型が連続してるものだとすると、それはずいぶん退屈で、つまらない音楽なのではないかという気がしてきますが、そして実際のところ大多数の現代人にとって、長唄とは
・何とも捉え所のない、
・どこが頭でどこが尻尾なのかの見当も付かない、
・要するに、すごく退屈な音楽。
なわけですが、そう思われてしまうのも仕方ないかなとも思います。なぜかというと、長唄の曲中の大部分が「際立った特徴のない音型の連続」であるのは、長唄の作曲法の特徴から、どうしてもそうなってしまう事なので。

長唄が「際立った特徴のない音型の連続」で成り立ってる理由にはもう一つ、やはりこれは「舞踊のための伴奏音楽」である事も大きく関係してると思われます。つまり一番の主役は踊り手。伴奏音楽が主役より目立ってはいけない。また、メロディよりもリズム重視。
更に、現代人にとって長唄が退屈なものになってしまったのは洋楽の影響も大きいと考えられます。洋楽というのは基本的に「分かりやすさ」を重視し、なんとなくでも「分かったような気」になり易い音楽。なので、これに馴染んでしまった日本人に長唄が理解しづらいのは、当然といえば当然。

---------------------

長唄の作曲法の特徴

 というわけでその、長唄の作曲法の特徴というのをここで簡単に説明しておきます。長唄の作曲法(メロディーの組み立て方)で最も多用されてるのは、
短い定型フレーズの断片を適宜組み合わせて、一つながりの長い曲にする」
という方法です。

それほど多用されない作曲法としてを用いるやり方その他もありますが、長唄で最も多用され、なおかつ弾き唄いでないと暗譜しにくいのは定型フレーズ組合せ式。大薩摩も定型フレーズ組合せ式です。

 その「短い定型フレーズ」というのは、平均して2小節(8拍)くらいの長さでしょうか。それを更に細分化して(二つに割って)用いたりもします。長唄という音楽はその大部分が、この定型フレーズという短い単位の組合せで出来ています。いわば音楽のパッチワークのようなもの、それが作曲法という面から見た場合の、長唄の音楽的な特徴です。

 しかしこの定型フレーズは、それほど沢山の種類があるわけではありません。パッチワークに例えるなら、元素材となる生地の種類が乏しいという事です。その代わり、組合せ方は多彩で(無原則的でさえある)、定型フレーズではない、つまりある特定の曲にだけしか用いられないオリジナル・フレーズも少なからず用いられます。以上のことから長唄は、
・わりと「どの曲も似たようなもの」であり、
・他の曲で聴いたことがあるような音型が、別の曲でもしばしば登場し、
・しかしまた、他の曲と全く同じというものも無い。
という性質を持つため、洋楽式の暗譜法では憶えにくいのだと考えられます。

「長唄は定型フレーズの組合せで作られてる」ということは、つまり長唄は紋切り型の連続の、非常にパターン的な構造を持った音楽なのであり、しかもそのパターン(定型フレーズ)の種類が少ないのだから、暗譜するのは容易なはずだ、と思われるかも知れませんが、一般的に、似たようで、しかしちょっとずつ異なるものが無原則的に配置されてる状態を記憶するのは困難なものであるし、また長唄の作曲者は、その数少ない定型フレーズを使い廻しながら、それが「使い廻し」である事が聴く側にバレよう工夫するものです。つまり長唄の作曲法には「パターンに依存しながらパターン的であることを隠すように作られてる」という特徴もあるわけです。

 以上をまとめると、長唄が洋楽式では暗譜しづらいのは「音楽的に複雑すぎるから」ではなく、
・むしろ単純だから
・単純なくせにパターン的には把握しづらいから
・結果的に、わりとどの曲も似たようなものになりがちだから
であると考えられます。

詞章の重要性

 その代わり、長唄の詞章は一曲一曲が非常に個性的に作られているものです。どの曲も、その曲独自の
・場所
・時代
・季節
・登場人物
といった設定を持ち、これらの要素を舞踊音楽として、時間軸上に展開するための構成も曲ごとに様々。そして、これらを表すのは詞章。その詞章=「ことば」に、
・リズム的な長短が割り当てられ、
・音程の高低が与えられることで唄の「節」となり、
・その歌の節を伴奏するための三味線の「手」が添えられる。
つまり長唄とは、

詞章の「ことば」

唄の「節」

三味線の「手」

という階層を持っている。もちろんこの三段階は概念的な捉え方で、実際の作曲が常に最上位から順繰りに行われるという事ではありませんが、
・三味線の「手」は唄の「節」に従属し、
・歌の「節」は詞章の「ことば」に従属する。
だから長唄は「はじめに言葉ありき」な性格の強い音楽であるのは間違いのないところですから、繰り返しになりますが、
・曲の詞章(ことば)
・唄の「節」
・三味線の「手」
の三つの要素を一揃いのものとして把握・記憶するのが重要なのであり、そのためには、曲を浚う時には弾き唄いをするのが良い方法なわけです。

さらに付け加えると、節の作り方、節に添える手の作り方の、曲ごとの特徴を把握することで、作曲年代による様式や技法の違いや作曲者の個性等を理解するための手掛かりを得ることが出来ます。「曲を浚う」というのも、ただ暗譜して仕上げれば終わりというのではなく、そういう面にも関心を持つのも大事(というか面白い)と私は考えます。

---------------------

丸暗記

 ですが実際のところ暗譜の仕方は人それぞれで、弾き唄いなどせずともバッチリ暗譜出来る人は、べつにそれでかまわないのだとは思います。弾き唄いをせずに暗譜をする方法としては「とにかく繰り返し何度も弾く」のが一般的だと思いますが、その他に、
・数字の羅列を暗記する
・譜面の絵面(えづら)を記憶する
というやり方をしてる人もいるらしいですね。

 「数字の羅列を暗記する」とは何かと言うと、長唄の楽譜は研精会譜と文化譜の二種類がありますが、これは両方とも数字で表記するものです。

研精会譜は、洋楽でいうところのドレミ〜を1〜7のアラビア数字で表記したもので、洋楽の五線譜と見た目は全く異なりますが、内容的には五線譜とよく似ています。
文化譜は、左手で糸を押さえるその場所(ポジション)を1〜18のアラビア数字で表記したもので、これは洋楽のギター等で用いるタブラチュア(タブ譜)と同じものです。

 なので長唄の譜面には64336667366676763443……といった具合に数字がずらっと並んでるのですが、この数字の並び順を暗記できる人がいるらしいんですね(少数派だとは思いますが)。例えて言えば、円周率(3.1415……)の小数点以下を何十桁も暗記するのに似た感覚でしょうか。

 このやり方でスラスラと暗譜出来るなら、(こういうタイプの暗記力がまるでダメな私としては)ちょっと羨ましいようにも思えます。ただ、この暗記の仕方では、たとえ何十もの曲を浚ったとしても、音楽家としての経験、あるいはスキルは、ほとんど蓄積されないと私は考えます。円周率を何十桁も暗記出来る能力と、数学者としての能力(あるいはセンス)の優劣とには関係がないのと同じような事であるように思えます。

 「譜面の絵面を憶える」というのは、譜面の見たままを写真の画像のように記憶の中に格納して、演奏中にその脳内イメージを見ながら弾くっていう、そういう事の出来る人が稀にいるらしいんです。

著名人でいうと、アンソニー・ジャクソンがわりとそういうタイプの人らしい。

 しかしこれも数字の羅列を覚えるのと同様、実際に鳴らされる音との関連性が低い暗譜法で、やはり何十曲を浚っても音楽をするのに必要な経験は蓄積されない(いや、数百ページ分の譜面の脳内画像を半永続的な記憶として保持できるなら、それはそれでもはや音楽的な能力として扱えるかもですが)。

 ともかく、数字でとか絵面でとかいうのは補助的な暗譜法として、とくに速成で曲を仕上げなければならないような時には便利な能力ですから、こういうやり方の出来る人は大いに活用されたら良いとは思いますが、基本はやはり弾き唄いで浚うのが一番良い方法だと私は考えます。

---------------------

ベースと三味線

 洋楽器の中で「唄や舞踊の伴奏のための楽器としての三味線」に一番近い役割を担ってる楽器はベースかなと思います。

ベース(弦楽器) -wiki

 このベースと三味線を比べる事で、「三味線弾きが弾き唄いをせずに稽古してる状態」とはどんなものかというのを、もう一つ違った観点から見てみたいと思います。まずは、三味線とベースのどこがどう似てるか似てないか?

洋楽ポップスの中でベースが果たしてる役割と、その演奏内容の特徴を箇条書きにしてみると、

・ジャズ、ロックンロール、ソウル等々の音楽ジャンルの違い(それは、ダンス・ミュージックとしてのリズム型、ノリ方の違いなのでもありますが)によって、どういうフレーズを弾くべきかのおおよそは決まっていて、つまり、大体いつも定型フレーズ的なものを弾いている。
・時々、歌のメロディー・ラインをなぞる(歌手を補助する)事がある。
・時々、ソロ・パートも受け持つ。
コード(和音)を弾かない。基本的に単音フレーズのみ演奏してる。

という事で、三味線と似てる点が多い。スラップ奏法が登場して以降は、奏法的にも音色的にも、ベースと三味線はますます似てきたように思えます。

逆に、ベース奏者の側から三味線のしてる事を見てみると、

・大体いつも、歌のメロディーをなぞるようなフレーズを弾いてる。
・ロック・バンドでいうところのリード・ギターやキーボード並みに、イントロや間奏でソロを弾く。

という違いがありますが、これは

・日本の音楽は和音を用いないため、唄の伴奏の作り方が洋楽と伝統邦楽とでは根本的に異なる
・また長唄は洋楽に比べ、それほど広い音域を用いないため、弦楽器がベースとギターに分化してない

等々の理由からこういう違いが生じるのであって、歌の伴奏をするという本質の部分では、三味線とベースは良く似た仕事を行ってると言えます。長唄の三味線は、洋楽ポップスのギターとベースの役割を兼務してる、と言うことも出来ます。

 また、洋楽ポップスのボーカリストは、(ベースが歌のメロディー・ラインをなぞるフレーズを弾いてるかどうかに関係なく)ベースを音程・リズム両面でのガイドにして歌ってることが多いとも言われます。どのボーカリストさんも必ずベースをガイドにして歌ってるわけではないけど、上手いボーカリストは、たいていベースを聴きながら歌ってるものです。ですから、歌手のために歌いやすいバックグラウンドを提供するという役割がベーシストには求められており、その点でも三味線とベースは似ていると言えます。

 ですので三味線弾きが弾き唄いをせずに曲を浚ってる状態というのは、
・ベーシストが一人きりで、
・自宅で黙々と練習してる風景
にかなり似てる、とも言えるわけです。ところで世の中に楽器の種類も色々ある中で、
「ベースの個人練習ほどつまらないものはない」
のであって、もちろん楽器を持ち始めたばかりの頃はしょうがないけど、ある程度一通りの事が出来るようになったら、たいていのベース弾きはバンドに加わるものです。一人でベースだけ弾いてたってしょうがないですからね。ところがどういうわけか三味線弾きの場合は、その一人で黙々個人練を厭わない人が多いのはなぜなのか?退屈で辛いだけの稽古、しかしその方が、

伝★統★芸★能やってるぜ!な感じがしてむしろ萌える

という気質の人ならそれはそれでオッケーかも知れませんけど、しかし三味線音楽は遊芸とも呼ばれる性質のもので、なんというか、苦節何十年の精進の末に芸道を極めてどーのとかとは違うんで(と私は思っております)、むしろ自分でやって面白い事、あるいは人に見せて面白いと思ってもらえる事を第一に優先させるべきではなかろうか?弾き唄いは曲を暗譜するのに必要なものですが、稽古の時に唄のある/なしではどちらが楽しいか?というのも大事なことだと思います。

---------------------

弾き唄いは難しいのか?

 稽古の時に弾き唄いをしてないという人でも、「本当はするべきだと思ってる」とか「やりたいんだけど難しそうだから尻込みしてる」という人も多いのかも知れません。実際のところ、弾き唄いは技術的に難しい事なのかというと、芸事は何でも、
・本格的にやる/人様にご披露出来るレベルにまで仕上げるのは難しく、
・自分一人でやるだけなら簡単(下手ぴいでOK)
なものです。そして長唄の稽古のための弾き唄いは最初にも書いた通り、基本的には人様にお聴かせするものじゃないですから、簡単コースでかまわないわけですね。声が悪くても音程が多少アレでも、とにかく「手」に「ことば」を付けるのが大事。とくべつ大きな声を出す必要もありません。

となると「ことば」を声に出さず、頭の中で唱えるだけでも良さそうに思えてきますが、これはやはり実際に発声するべきと思います。声に出さない事には、詞章を正しく暗記してるかどうかの検証が出来ませんし、また弾き唄いには、三味線を弾くための神経を口を動かす方にも分散させるため、無駄な力を抜くためのコツを掴む効用もあるのでは?

---------------------

 以上長々と駄文を綴ってしまいましたが、要するに「稽古の時は弾き唄いをした方が良いですよ」と皆様にお勧めするのが、このページの主旨です。ですので筆者としては、人にやれやれと言うだけでは片手落ちで、ここは一つ率先してネットの世界で恥さらし、私自身の弾き唄いの録音を公開しておかないといけないような気がするのでそうしますね。

「四季の山姥」より

ふりさけ見れば袖ヶ浦 沖に白帆や千鳥たつ
蜆採るなる様さえも あれ遠浅に澪標
松棒杭へ遁れきて ませた烏が世の中を
阿呆あほうと笑う声 立てたる粗朶に付く海苔を
とりどり巡る海人小舟 浮絵に見ゆる安房上総

↑この録音は一発録り(1 take)ではなく、この部分だけ何十回も録音した中から比較的まともな出来のものを5 takeほど選び出し、それを継ぎ接ぎ編集して1本にまとめたものです。
弾き唄いは下手でOKとか言っておきながらあれなんですが、録音物は生演奏と異なり繰り返し何度も聴かれる性質のもので(↑の録音を何度も聴きたがる人なんていないよとか、そういう事はさておいて)、たかが素人の稽古の記録にすぎないものであっても、WebにUpする以上は一応最低限のなにであって欲しい。なのに私の歌唱力では、継ぎ接ぎしてもその最低限のなんとかに達せないのが非常にアレですというか、やっぱ弾き唄いは難しいかもねw

 弾き唄いの実例として、なぜ四季山の二上がりを選んだのかというと、ここは三味線の手が混んでる割には、案外唄いやすいんですね(唄いやすいにしては↑の出来はなんだみたいな話しは、この際一切不問に付して頂きたいのである)。
 手が混んでる=ちょっと難しそうな事を弾きながら唄うのは、とくに長唄というのをあまり知らない人の前でやってみせる時の良いネタではなかろうか?またここの唄の節は長唄というより俗曲風なので、やはりこれも長唄に馴染みのない人に受けが良い(かも知れない)。声域は高いところを多めに使うので派手。三味線の「手」に擬音(面白ネタ)もあったり等々の特徴から、つまりこれ、
「レクチャー付きコンサートのような場面で受けを取りたい時に適した題材の一つ」
じゃないかと思うので、そういう活動をなさってる方は参考にして下さい的。

---------------------

 三味線の「手」が混んでると弾き唄いは難しいのか?逆に、「手」が疎らなら唄いやすいのかというと、それは一概には言えなくて、例えば同じ四季の山姥の中の三下がり(冬は谷間に冬籠もる)の部分、「手」はごく単純ですが、ここを弾き唄いでやるのは(色々な意味で)とても難しいものです。
 しかし実際、どの曲が弾き唄いしやすいかは人によって色々で、それはつまり自分の好みであるとか、節の型が音感上把握しやすいかどうかとか等々で、弾き唄いをしやすい/しにくいの違いが生じるように思われます。

 とはいえ三味線弾きにとっての弾き唄いは「曲を浚うため」のものですから、出来る出来ないに関わらず、どんな曲でも弾き唄いで稽古せねば。そしてやはり一般的には、三味線の「手」が混んでいて言葉数も多いといったものほど、弾き唄いは難しく、しかしそういう部分こそ「手」と「ことば」をしっかり関連させないと、暗譜はうまくいきません。では、そういう場合にはどうしたら良いのかという実例をもう一つ用意いたしました。

「吉原雀」より

(いつか廓を離れて紫苑)
そうした心の鬼百合と 思えば思うと気も石竹に
なるわいな
末は姫百合男郎花 その楽しみも薄紅葉
さりとはつれない胴欲と 垣根にまとう朝顔の
離れ難なき風情なり

---------------------

 これはつまり、唄の「節」の要素を排除して、「ことばを棒で言う」あるいは「念仏にする」というやり方です(↑の例では、部分的には節を付けて唄ってますが)。
 弾き唄いでは上手く唄えないなんて事を思い煩うくらいなら、どの曲も全編このやり方で押し通したって良いわけです。ただ、一曲およそ15分のものをずっと念仏。そんな稽古を毎日してたら気が滅入ってきますから、自然と、唄いやすい個所だけでもなるたけ唄うようになるものではなかろうか?

 「ことばを棒で言う」式の弾き唄いは「節」の音程を省略してるわけですが、「節」のリズムおよび「手」との組合わさり方は、その曲本来の型通りに唱える必要があります。念仏だからテキトーでかまわない、のではありません。産み字の扱い方にも注意が必要です。

2009/08/09
(改)2017/05/07



inserted by FC2 system