ブルース・ハープ

 通称、ブルースハープ。楽器としての構造や機能に即するなら10-hole daiatonic harmonica等と呼ぶべきところを、独ホーナー社の一商品であるBLUES HARPを以て通称とするのは、リゾネーター付きギターがドブロ、足鍵盤付き家庭用電子オルガンがエレクトーンと通称されるのと概ね同じですが、ハーモニカが発明されたのは1827年。1840年代には専門メーカーによる量産が開始され、ヨーロッパではこの楽器が大流行した。

 ちょうどその頃が明治維新期にあたる日本では、政府の欧化政策と関連して洋楽の移入が推進される、その過程で「楽器の大衆化」とでも呼ぶべき現象が、明治の中期以降になって興りました。
 ハーモニカが日本に輸入され始めたのは1895年(明治29)。(これに刺激されたからかどうか、その前後関係は不明ですが)明治〜大正期の日本では、ハーモニカのように安価で、演奏が容易な新種の楽器が、いくつも考案され売り出されていたのです。しかしそれらの大半は一時的に流行したとしてもすぐに飽きられ、現在まで使用され続けてるものは皆無です。

そういった明治大正期の新案楽器の中での唯一の成功例といえるのは大正琴。でもこれも、現在ではほぼ廃れてます。その他、新案楽器ではないけど「楽器の大衆化」に関わりがあったのはマンドリンやクラシック・ギター。時代が下り昭和の戦後になってからはエレクトーン、そしてエレキ・ギターなど(つまり大衆化楽器といっても安価なものばかりとは限らず、社会全体の経済成長に同期して可処分所得を増大させた階級に対しては、その富裕化に見合った商品が用意されもするわけです)。

また新種新案の楽器ばかりではなく、明治末〜大正初期には
・三味線音楽を記譜する方式が確立され(数字譜とタブ譜)、
・江戸期以来のレパートリーが楽譜として刊行され、
・それを用いる三味線講習会がデパートの催事として開かれる。
というような出来事があったのですが、これも、三味線という楽器自体は新しくはないけど、それの運用法が新しく、三味線愛好家の裾野を「大衆」にまで拡げようという意図を含んでいたという点で、この時代の「楽器の大衆化ムーブメント」と軸を一つにする現象であったと考えられます。
 ギターも古くからある楽器だけど、20世紀初期にA.セゴビアが中心となって楽器の改良とレパートリーの拡大が行われた結果、狭い室内で演奏するか、路頭や酒場で掻き鳴らすのみであったギターは、大ホールでコンサートを行うスター・プレーヤーのための楽器へと変貌した。これも運用法を新しくする事が楽器の大衆化に結びついた一例といえるでしょう。

 ともかくそういった、時代の徒花とでも呼ぶべき諸々の中で、現在までかろうじて人気と需要を保ち得てる数少ない楽器の一つが、ハーモニカである。いや、「数少ない一つ」ではなく、ハーモニカのみであるとさえ言える。
 20世紀の中頃に登場したエレキ・ギターは、楽器の大衆化ムーブメントが最後に咲かせた大輪の花であるけど、誕生してからまだ100年を経ておらず、今後も定着し続けるか否かの見通しは不明瞭。その他の電子楽器やパソコン用音楽ソフトなどの将来性も不透明。対してハーモニカは、最初に大流行したのが約150年前で、現在は以前ほどの人気はないけど、150年続いたというだけでも、このテの楽器としては上出来なわけです。

エレキその他の大衆的楽器の今後が不透明、なのではなく、「大衆」なる概念の将来性が不透明、なのでもあります。「大衆」とは、近代国家(国民国家、Nation-state)が生み出し、マス・メディアによって(マス・メディアの中で)具現化される政治装置的な概念である(とも言える。これをあえて、民衆、庶民、群衆といった言葉と区別して意義付けるなら)。
しかし近代国家とは歴史的な存在であり、だから歴史によって克服される可能性がある。西欧圏では既にその兆候が現れ始めてるかも知れない(無形態の、あるいは国民不在=国民不要な支配形態としての超国家主義的な、まだ名前の付けられていない何かとして)。
また、インターネットが普及して以降、マス・メディアによる「マスを形成する機能」は弱まってきている。例えば2012年現在の日本では、ここ数年、テレビ起源の流行語や流行歌が激減してる。このままマス・メディアの縮小が続き、また、インターネットにマス形成の機能が引き継がれなければ、いずれ「大衆」は消滅するであろう。

 しかしなぜ、19世紀以降に新案された安価で演奏容易な楽器も数ある中で、ハーモニカだけが根強い人気と需要を保ち得たのかというと、それはやはり他の同類品と比べても圧倒的に安く、音を出すのも簡単だからとか、そのわりには応用範囲が広くて実用性が高いからとか、小型で故障しにくいから等々の理由は挙げられるけど、もう一つ、これが
ブルースにとっての重要な楽器だから」
というのも、大きな要因の一つとして外せないものです。

 ブルースがいつ誕生したかはよく分からないけど、どんなに早めに見積もっても南北戦争(1865年終結)によって引き起こされた様々な社会変動や混乱が一応の落ち着きを取り戻した、1880年代以降であろうと考えられます。
 一方、独ホーナー社が北米への輸出を開始したのは1862年。MARINE BANDを発売したのは1896年。つまり、ハーモニカという楽器が北米圏に展開し定着していく過程は、ブルースという音楽が誕生し広まっていく過程と、時期的にリンクしている。だから、ハーモニカにブルースの名を冠して通称とする事には、記念碑的敬称の意味合いが込められてもいるのであって、ただ単に「最も多く売れたから」とか「他に適当なものがないから」といった理由での通称とは、一段別格であるように思われるのです。


 しかしながら実は、ホーナー社のメインの商品はMARINE BANDであって、BLUES HARPではないんですなこれが。ブルース・プレーヤーが使うのもBLUES HARPばかりではなく、MARINE BANDの方を好む人も多いみたい。
 私が最初に買ったハーモニカは、このページの1枚目の画像のBLUES HARPでした。それなりの長期間、練習用として用いたのでカバーのメッキにも貫禄が付いてますけど、2本目に買ったのはMARINE BANDで、こちらの方が、
・鳴らし易い
・ベンドしやすい
・ビブラートも掛けやすい
とまあ、いずれの点でもBLUES HARPより扱いやすいと気付いて以来、すっかりMARINE BAND派になってしまいました。


 現在所有してるMARINE BANDは全てメジャー・キーの、
・C(2本)
・G
・D
・A
・F
・Lo F
・Bb
・Eb
の、都合9本。その他、OLD STANDBYとトンボ社のMAJOR BOYも1本ずつ持ってます。

 MARINE BANDのKey=Cは、最初に買ったのが、これもメッキがヤレてきたし音の腰も弱くなった(ような気がした)ので1本買い足したのだけど、あまり意味なかったかも(少々古くなったくらいでは、たいして音は変化しないみたいです)。

 OLD STANDBYはキレイ、可憐、可愛いといったような音で、ブルース系とはまた別の意味での「ハーモニカらしいハーモニカ」なのかなと思います。
 トンボのMAJOR BOYは樹脂製ボディのハーモニカで、樹脂ボディってどんなものかと思い試し買い。木製と違って「不確実な要素が少ない」から扱いやすい(ような気がする)。しかしこれはホーナー社製品ではありませんから、MARINE BANDと比べてどうかというのは、よく分かりません。

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 私がブルースハープを始めたのは2000年の冬だったか、2001年の初頭。その頃、私は「皿洗い」のバイトをしてました。客室数1000室規模の大ホテルの、メインの大食堂の洗い場で、1日8時間、出勤日数は1ヶ月に30日弱。つまりほとんど休日無しというペースで勤務してました。
 「皿洗い」というのをやった事がない人には分からないだろうけど、これはかなりハードな仕事です。その当時の私の食事量は1日5食くらい。やたらと食べてたのだけど、それでも体重は60kg前後だった(身長は172cmですので、BMIは21くらい)。大量に食ってなきゃ「やってられない」職場だったし、たくさん食べても太る余裕はなかったとまあ、それだけ体力を消耗する仕事です。

 なんでそんな仕事、そんなペースで勤務してたかというと、そうせざるをえない経済的等の事情があったからで、ともかく皿洗いとはえらく体力を消耗する仕事であるがその他に、常時お湯と洗剤に手を浸してるため、手荒れが酷い。皮膚はガサガサで爪はボロボロになりました。
 また、手首の関節も痛みます。皿というのは、一つ一つはとくに重くもないけれど、比重で言ったら「石」に近い。それを毎日数千枚、右から左へと受け渡す動作を続けてると、手首に掛かる負担、その累積は、非常に大きなものになる。そのような勤務状態が何ヶ月か続いた時点で、
「自分、もう今後はギター弾けなくなるかも」
と思ったんですね。いや、皿洗いを辞めれば手先の状態も回復するのだろうけど、少なくともあと2〜3年は、この職場から抜け出せそうにはない(と、その時は思ってた)。その間に、私の手首は回復不能なまでに傷んでしまうのではなかろうか。

 しかしまあ、べつにギターが弾けなくなっても、それはそれでかまわないと思ってしまう私なのである。

 ただ、自分の生活から「楽器を弾く趣味」が全く無くなってしまうのもどうかと思うし、だからこの際、指先がダメでもやれる楽器に乗り換えてみようではないか。しかし指先、というより手首から先を使わない楽器といって思い付けるのは、トロンボーンとハーモニカくらいしかない。

 私の中学時代の部活はブラス・バンドでした。入学当初はトランペットで、2年生になってからはトロンボーン。しかしブラバンを3年続けて得られた結論といえば、
「私には管楽器に対する適性がない
という事でした。だけどそれは10代の頃の話しだから、今また再挑戦したら以前よりかはマシかもしれない。とはいえトロンボーンを買う金も練習してる時間もあるわけがない当時の自分にとって、可能な選択肢はハーモニカのみであった。

 とまあ、そんな経緯(いきさつ)で始めたハーモニカですが、これはやっておいて良かったと思ってます。皿洗いのバイトはその後何年も続けることなく、わりと短期間で辞める事が出来て、私の手首も大事なく、再びギターを弾くようになった現在は、もうそれほど頻繁にハーモニカを吹く機会もないのだけど、たまにこれを手にすると皿洗いをしてた時の辛い日々が思い出され、二度とああいう状態に陥いりたくはないと、その都度思う。そういう点でこの楽器は、私にとっての大切な思い出の品なのです。

 それにもちろん、ギターとは性質の異なる「吹いて鳴らす」系の楽器を扱えるようになったのは良かったです。宅録用の品揃えとしても、こういうのが一つあるだけで、やれる事の範囲はずいぶん違ってきますから。

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 ハーモニカは「吹いて鳴らす」楽器だけど、管楽器ではなく、吹奏楽器とかいう項目に分類されるとかなんとか。だったら管楽器も「吹いて鳴らす」んだから吹奏楽器なのではないかというのも理屈だけど、管楽器とは、
・管に息を吹き込む→
・管の内外で気圧差が生じる→
・それにより管内の気柱が流体力学的に半固体的な発音源となる。
という原理で鳴る楽器であって(ちょっと違うかも)、ともかく、ハーモニカの発音原理はそれとは全く異なるから云々。ものすごく大雑把にいうと、ハーモニカは「息で鳴らす弦楽器」に近い(と思う)。だから管楽器に対する適性がない自分でも、一応なんとか扱えるようになったんじゃないかと、私はそう勝手に解釈しております。

 いや実はその、皿洗いをしてた時にちょっと頭に浮かんだ「トロンボーンに再挑戦してみたらどうか」という考えの方も、その後実行してみたのですよ(2002年頃だったか、お金と時間の余裕が戻ってきた時期に)。中古のトロンボーンを購入し、アマチュアのジャズ・ビック・バンドに参加したのです。トロンボーンってのは大抵どこのバンドでも人材不足だから入りやすいんです。それで分かったのは、
「やっぱり自分、管楽器はぜんぜんダメだわ」
っていう。

 私は金管楽器のほかに、フルートに手を出してみた事もあるのです。それなりに長期間、わりとちゃんと基礎練習したりもしたんですよ。しかしこれも、ぜんぜんものにならなかったですなあ。

 しかし弦楽器なら、弦楽器と一口にいっても膝の上に乗せるもの、首根っこに挟むもの、床に立てるもの、また、指で弾くもの、弓で擦るもの、バチやピックを用いるもの、フレットのあるもの無いもの、チューニングも4度間隔〜5度間隔〜オープンチューニングと様々で、音域もバスからソプラノまで幅広く、色々なタイプがありますけど、私はどれでもOK。ある程度練習すれば、どれもたいして上手にはならないけど、一応なんとかなるのです。というか、上手い下手の以前に、どれも弾いてて楽しい。

 対して管楽器はどうかというと、もちろんこれも「出来たらいいな」と思ってやり始めるのだけど、
・和音が出ない
・メロディーを吹くだけ
・伴奏に使えない
・一人遊びが出来ない
という楽器だから、結局は飽きてしまうのですね。それと、管楽器は音量が大きいから練習場所の問題も面倒。いやこれ全て、やる前から分かってる事のはずなんだけど、実行してみれば改めてよく納得できる、というか痛く実感されていやになるっていう、早い話し、少しバカですな。

 さらに管楽器は、日々の基礎練習を日課として行わないと、吹ける状態を維持できない楽器なのでもあります。管楽器を奏するに要する筋力や身体機能は、日常生活でのそれとは全く異なる(からなのか)、ともかく管楽器とはそういうものなのだけど、この点が私には辛い。

 私は、楽器が出来るようになる事は「自転車に乗れるようになる事」と似たものであって欲しいと思うのです。自転車は子供の時に一度、乗り方のコツを会得してしまえば、その後に日々の訓練など続けなくとも、乗れなくなってしまう事はない。もちろん競技会に出るための自転車とか、そういうのは日々の鍛錬が必要ですけど、そうではなく、ママチャリで近所にちょこっと出かけたり、観光旅行に行った先でレンタル自転車を利用する程度なら、たとえ10年ぶりに乗ったとしてもOKじゃないですか。私にとっての楽器、というよりも「音楽をする」事の全体は、競技会を目指して何か特別な事をするのではなく、「ママチャリで近所をちょこっと」とか、「物見遊山の気楽なサイクリング」的な感覚のものであって欲しい。私の音楽観が、そういうものだという事ですね。

 私が自転車に乗れるようになったのは、小学校3年の時でした。ちょっと遅かった。なかなか乗れるようにならなかったんですよ。それである時、クラスの同級生4人くらいが私の練習に付き合ってくれて数日間、放課後に特訓してくれた。そうやって遂に乗れるようになった時の「やった!」っていう気持ち。目の覚めるような、新しい世界に踏み込んだかのような鮮やかな感覚は、今でも忘れられません。

 楽器や音楽をやり続けてると、出来なかった事が出来るようになったり、聴こえてなかった音を聴き取れるようになったりする経験、つまり、乗れなかった自転車に乗れるようになった時の「やった!」に似た感覚を、何度も経験します。

 楽器の演奏力に関しては、先に述べた管楽器、それと技術偏重型器楽とか古典化したジャンルとかでなら、日々の鍛錬は重視されるけれど、そういうのはむしろ音楽全体からすれば例外的なものではなかろうか。少なくとも弦楽器に関しては「一度コツを掴んでしまえばそれでOK」な場合が多い。
 聴く能力の方はどうかというと、まず耳という器官自体は加齢によって衰えていくものだし、暗記や暗算を援用するタイプの聴取力に関しては、しばらく使ってないと衰えるし、これもやはり加齢によって衰える。というような事もあるけど、それ以外の「耳の能力」については、概ね自転車に乗るコツと同じで、一度「聴ける」という感覚を掴んでしまった後は、放っておいても失われる事はない。
 だからそういう点で、自転車に乗れるようになる事と音楽が出来るようになる事には、似た一面があるのです。

ところでこういう人間の能力、感覚に関しての、最も驚くべき(不思議な)特徴は何かというと、
「自転車に乗れるようになった自分は、乗れなかった時の自分にはもう戻れない
という点です。出来るようになってしまった自分は、出来なかった頃の感覚を思い出す事が出来ない。出来ない事の「辛さ」とか「悔しさ」とかの感情は忘れないかも知れないけど、「出来ない状態」には戻れない。これ、本当に不思議だと思いませんか?世阿弥の云う、
「初心不可忘(初心忘るべからず)」
というのも、この点を踏まえて理解されるべき事と思うのですが、それはともかく、出来るようになった自分は、出来なかった頃の自分には戻れないという事は、同じ自分ではありながら、その以前と今とでは別の人間、別の生き物と言えるほど違ってしまってる、という事なのではなかろうか?コツを掴んだ事によって、別の世界に飛び移ってしまったのです。ここで生じてるのは、日々の努力の積み重ねで生じる連続的な「変化」ではなく、昨日と今日との間の「断絶」である。
「たかが自転車に大袈裟な」とも思われそうだけど、こういう事柄を軽視すべきではないと私は思います。

ついでに;
この「出来ない→出来るようになる」の関係を、「知る、という事」(知らない→知った)に置き換えてみると、
「(何事かを)一旦知ってしまった自分は、知らなかった頃の自分には戻れない」
という事になる。ところでこれは、一つの知を得る事で、一つの無知(知らなかった自分の忘却)を得てるわけで、差し引きすればゼロだから、人はどんなに物知りになっても、無知の状態から抜け出す事は出来ないのではないか?いやそうではなく、自転車に乗れるようになる事のような、飛躍的な、断絶的な「知の獲得」は、やはり可能なのであろうか?

この件は「教育」の問題に関して以下のように展開する事も出来る。即ち、
「要領よくコツを掴んですんなり上手くなった音楽家は、教育者としてはイマイチで、コツコツ努力を重ね、出来ない苦しさを多く味わってきた人の方が、教えるのが上手い。」
などとはよく言われる事だけど、それは本当だろうか?私は、これには誤りが含まれてると思う。コツを掴むのが下手な、要領の悪い人に教わったら、その要領の悪さを伝染させられちゃいますからね。音楽は、「要領の良い人」を身近で観察して、コツの掴み方を盗み取る。そういうやり方でしか学べないのではなかろうか。

つまり私は、断絶的な知の獲得は可能だし、音楽の学習は断絶によってこそ実現される、と考えてるようである。

コツコツ努力型の人には、自分の経験と、それによって得られたものを尊重しすぎる、ひいては「自分というもの」を大事にし過ぎる傾向がある、のだとしたら、それもちょっと問題である。文芸に於いて「個性」とは必須のものである。個性が必須だというのは、それが特別な付加的価値などではないという意味であるが、努力型の芸能者は、この点の認識が歪んでる場合が多い、かも知れない。個性に対する「歪」な認識によって生じるのは、個性と「個別性」との混同とか、個性に対する過大評価、無個性への卑下、等々である。

実際のところ、コツを掴むまでは地道な努力が必要な場合も多いです。しかし一旦コツを掴んでしまったら、そこに至った経緯はキレイに忘れてしまった方が良い。
しかし、私が自転車に乗れるようになったのは独学ではない。付き合ってくれた友達がいたからこそ乗れるようになった。その事を忘れてしまっていけない。音楽も同じですね。

 ともかく、自転車に乗れるようになる事と音楽が出来るようになる事には、似たところがある。とはいえ全く同じなのでもない。
 自転車の場合は「乗れるか乗れないか」という大きな飛躍、決定的な断絶が一回あるきりだけど、音楽の場合は、それほど大きくもなく決定的でもない小さな断絶、小さな「やった!」を、何段階も積み重ねていく事になる。具体的に何回くらいの「やった!」が必要かというと、それは音楽をする人それぞれの志(こころざし)次第で、多くもなれば少なくもなるのだと思う。音楽とは無尽蔵なものであり、汲めども尽きぬ泉である。だから一生涯、小さな「やった!」の積み重ねは続いていくのかも知れない。

 だからと言うのではないけれど、楽器という道具が、それを一通り扱えるようになるために、また、その状態を維持するために、毎日一定の労力を費やす必要があるものなら、それは私にとって負担が重すぎる。もしも楽器など用いず音楽が出来るなら、それが一番よいくらいだ。音楽のためにすべき事は他に沢山あるのだから、道具イジリになんかにかまけてられませんよ。だからギターとかハーモニカとかの、簡単に音が出せて、ちょっと練習すれば一応の格好が付くタイプの楽器というのは、本当に良いものだと思います。

 最後に、付けたりのようで申し訳ないですが、私には管楽器の適性が無く、日課的に練習をこなす気力もない云々というのは、これまったく私個人の性格・人格によるナニで、それとは正反対に、
・管楽器への適性があって、
・日課が苦にならない、というかそれが生きがい。
・団体行動が好き。
という人も、当然いるのだし、またそういう人材は絶対に必要なのですね。でないと、音楽の世界から管楽器とかホーン・セクションが無くなってしまいますから。音楽の世界の半分は、日課的な鍛錬を厭わない人達の努力の積み重ねで支えられている。その事を否定する意図は毛頭ほどもありません。

2012/10/12

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