(お別れ録音)Teisco EG-K、2012年7月

2012/10/31
(改)2017/10/23


 セルロイド切り抜きのヘッド・ロゴや、その他のパーツの特徴から、おそらく1950年代に製造されたものであろうと推測されるラップ・スチール。PUカバーはEG-Rと同じですが、中身は全くの別物。
 EG-Rに載せられてるのは大型のマグネット・プレートを用いた古い設計の、ある意味とてもスチール・ギターっぽい仕様のPUですが、このEG-Kのマグネットは、エレキ用PUとしてごく当たり前の大きさです。
 その他、Toneの省略された1 Vol.のみのコントロールや、厚さの薄い軽量なボディなど、万事廉価な仕様でまとめられた製品です。

■アンプはYAMAHA YTA-25/マイクはAUDIX D1

・エフェクター等なしのクリーン・トーンですが、
1st verse1st verse3rd verse
本体Vol.を8くらいFull5くらい

にしてます。

■ベースはYAMAHA BB-1200(フレットレス改)
ART DUAL MPM-AUDIO FireWire 410という接続で卓直。
・DUAL MPの設定は、
INPUTOUTPUT 
3時半10時High Z Inputを使用

■スネア・ドラムはKORG WAVEDRUM ORIENTAL
ART DUAL MPM-AUDIO FireWire 410という接続で卓直。
・ART DUAL MPの設定の記録は無し。

■その他のドラム・パーツは打ち込み。

■その他の楽器;
マイクLoCut立て方
加納木魂OktavaOnSoundHoleほぼ正面、距離15cm
Hohner Marine Band
Key= Lo F
Off顔のほぼ正面、距離20〜30cm
国島マンドリンOffSoundHoleほぼ正面、距離30cm
2nd verseだけ15cm
YAMAHA TMB-224Offやや上方から、距離60cmくらい

・上記4楽器のプリ・アンプはART DUAL MP。設定は、
INPUTOUTPUT 
ほぼFullほぼFull背面Inputを使用

■2012年7月22日/9月24,25日録音

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 以前の記事、Teisco EG-R の「お別れ録音」の時にも書いた通り、私にとてのラップ・スチールはハワイアンのための楽器ではなく江戸期の胡弓の仲間みたいなものと、まあそんな風に思ってます。ここでいう胡弓とは、地歌箏曲の三曲合奏で用いる、室内楽的でちょっと高級な方の胡弓ではなく、門付け辻芸人が用いる方の胡弓。

 明治以降、胡弓は急速に廃れてしまうが、大正時代になってからの辻芸人、すなわち演歌師がバイオリンを用いた事で、江戸胡弓の響きは巷に甦ったと言えなくもない。細く頼りなく、甲高い音で哀切を奏でる弓奏楽器は、日本の都市の逢魔ヶ時を飾るのに似合いの音色なのかも知れません。

 そのバイオリン演歌も昭和の初頭に廃れてしまいましたけど、彼らのレパートリーは明治大正はやり歌という出し物の一部として、今でも時たま寄席演芸場で奏されたりしてる。寄席ではその他に「かっぽれ」とか、奇術のBGMとしての「千鳥の合方」とか、「ボーイズ」とか、もう少し時代の例でいうと「ランバダ」とかポール・モーリアの「オリーブの首飾り」とかが、いまだに現役で使用されている。寄席とはそういった、忘れ去られて久しい流行歌と、かつての世間を充たしていた「雑音楽」の、今となってはもう残り少ない断片の幾つかを寄せ集めた実演場なのでもあって、だから辻芸的胡弓の系譜をラップ・スチールで遡ってみたい私としては、その雑音楽の中のいくつかをカバーしてみるのも面白いかと考えております。

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 ところで、大正期のバイオリン演歌が流行してた頃、あるいはそれより少し前の時期、それはラジオ放送が始まるかどうか、そして蓄音器はまだ充分には普及してなかった時期、という事でもありますが、その頃の巷でよく耳にされた音楽にはもう一つ、ジンタというのがあった。これの起源は鹿鳴館でのダンスの伴奏を受け持った市中音楽隊(海軍軍楽隊除隊者によって編成された小編成のブラス・バンド)。この西洋風ダンス・バンドは民間にも模倣され、同じような吹奏楽団が他にも多数結成された。

 鹿鳴館の開館は明治16年(1883)。しかし、これの推進者である外務卿・井上馨が明治20年に失脚すると、間もなく鹿鳴館ブームも終息し、民間での洋風ダンス・パーティーも消滅し、そのため仕事のなくなった音楽隊は見世物興行や無声映画の伴奏、サーカスの伴奏(ジンタ)、小学校の運動会、商売の宣伝(チンドン)等で糊口をしのぐ事となる。古い日本を否定し西欧に倣う、という高邁な目標を掲げた鹿鳴館ブームの副産物である市中音楽隊は、明治末の頃までには場末の埋め草音楽へと変質した。ジンタという名称は、その過程のどこかで生じたと思われます。

 と、そういう先入観のある耳で、例えば「美しき天然(天然の美)」あたりを聴けば、なるほどこれは零落する音曲師の末路に相応しい曲調のようにも思えてくる。だけど凡そ大正期頃までの流行歌は、どれも概ねこんな曲調であって、その事も考え併せると、当時の日本人にとってのこういう曲調は、ことさらな悲哀の表現ではなかったかも知れないようにも思われてくる。

 軍歌の多くもマイナー・キーである。そして軍歌も時々は戦争の悲惨さとか、故郷を離れる辛さとかを歌うのであるが、その意味内容を担うのは「歌詞」であって、マイナー・キーである事が「悲しみ」の表現であると、明治〜大正期の日本人にそう受け止められていたかどうかは、よく分からない。なぜなら、20世紀以降の日本人の聴感覚、というか耳の中身、というか
「聴いたものをどう意味づけるかに関する約束事の体系」
とでもいうものが、明治大正期の日本人とはかなり異なってるからである。

 なぜそういう事が言えるのかというと、例えば三味線音楽では、三下り、本調子、二上りという、三種類の調弦方を使い分ける。これらはそれぞれに異なる旋法(旋律形)に対応してる、とまでは言い切れないのだけど、三下りを用いる曲と、二上りとのそれとで曲調の異なるのは明らかであって、概ね、三下りは暗くて地味。二上りは甲高くて華やかなである。
 これは西洋音楽での長調/短調の違いと似てなくもないが、長短調ほど明確には違わず、二元対立的でもない。また、同じ三下りの中にも、陰気なばかりで気の滅入るような曲もあれば、(二上りの華やかさとはまた別の)明るさ華やかさを持った曲もあったりして、その変化する相は段階的で多彩だから、「長短調の違いと似てる」などという不正確な喩えは、本当は用いない方が良い。
 もちろん、三味線のそういう違いの分かる人にこんな説明は不要だけど、それが分からないという人に説明する必要のある場合は、西洋の長短調あたりを引き合いに出すしかない。つまりそれほどまでに、現在の日本人と古い日本人とでは、耳の中身、あるいは音楽と接する際の習慣、音響を解釈し意味付けるのに必要なルールが、異なってきてしまってる。

 三味線音楽について更に言うと、例えば長唄と常磐津とでは、旋律形の全く異なる部分があって、唄の発声法とか三味線の音色の違いとかの以前に、この二つの音楽ジャンルは、その旋律形とか、音程の選び方の違いによって明確に区別される。こういった違いは長唄と常磐津とだけでなく、小唄はうた古浄瑠璃その他もろもろ全ての相互関係についても同様。

 しかし、三味線音楽それぞれの旋法(旋律形)の違いなどといった事柄は、常日頃から聴き馴染んでなければ理解できるものではない。それは三味線音楽に限った事ではなく、音楽では常に、聴感上の約束事とは習慣=慣れによって学習されるものだから、例えば
・1940年代より以前の古式ブルースとか、
・ペルシャの古典音楽とか、
・新ウィーン楽派の12音技法音楽
等々でも、それに慣れてない聴者にとっては、
・どの曲も同じに聴こえて、
・退屈で、
・理解できない
のだけど、それはむしろ当たり前。聴き馴染みのないジャンルの音楽は分からなくて当然である。
 全ての音楽は学習を経て了解されるのであって、だから「音楽に言葉はいらない、理屈はいらない」等という人は、まずたいていは異文化に対する敬意を欠いてるし、学習への意欲がないのではなく、おそらく自分でも知らないうちに(似非学問的な何かしらを)学習してしまってる事に対して無自覚である。

 とはいえ音楽は、理屈で理解するものでもない。聴いたものをその場で譜面に書き起こせる程度に音感が良く、なおかつ一度聴いただけで暗譜できる程度に記憶力の良い人であるなら、そうでない人よりも「慣れる」のは早かろうけど、それでも、ある一曲を聴いただけですぐに慣れるのは無理である。ある音楽ジャンルに対して、何故それが一個の独立した音楽ジャンルだと見なされてるのかを理解するには、聴者の聴体験が、音楽ジャンル相互関係のネットワークに組み込まれないうちは無理であって、そうなる迄には概ね常に、それ相応の時間を要する。

 日頃から様々なジャンルの音楽を幅広く聴くタイプの聴者なら、その人にとっての未知のジャンルの音楽を初めて聴いた時でも、それがどういう系統のものであるかの「大まかな判断」くらいならすぐに出来る。色々な音楽を聴くという経験を積めば、そういう事も可能になる。
 しかしそれは、自分の中に既に出来上がってる分類棚に適合し易いように聴体験をフィルタリング、つまり情報の取捨や間引きを行った結果としての「大まかな理解」でしかない場合も多いと思う。そのような聴取理解の仕方では、その未知の音楽と接する事で得られるはずであったかも知れない本来の感動は矮小化されてしまうし、大まかな理解という粗雑さは、「音楽を経験する」事の実感の生々しさを損なってしまう。
 「最初は大まかで、そのあと徐々にに詳しく聴けば良い。」という考え方には、たしかにそういう段取りにするしかない面もあるのだけど、(ファーストコンタクトで損なわれたものを後から回復するのが困難かどうかという以前に)そもそもの出会い方に感動が伴ってなければ、その時に何かが損なわれたかも知れないという自覚、疑念は生じない。となると、改めて詳しく聴き直そうという熱意も生じないのではなかろうか。

 だから音楽には、聴けば聴くほど、経験を積むほど、理解力が深まるのではなく、むしろその副作用として、感覚の鈍化や麻痺、聴き続ける事への倦怠感を引き起こしやすいという一面がある。自分が「馴化」したのか、それとも「鈍化」したのかを自分自身の内部基準で判定するのは不可能だから、「経験」とはこの場合、とくに何の役にも立たない。そこに更に音楽の「分かったような気になるだけなら容易」という性質が合わさると、人は往々にして鼻持ちならない「知ったかぶり」へと堕ちていく。そしてとどのつまりには、
「自分は音楽を聴いてウン十年のベテランだから、なんでもすぐによく分かる」
といった事を言い出す人も出現する次第だけど、そういう人の耳の中身は大抵ガランドウである件、これは読者の皆様も常日頃、身近にそういった実例を多く見出されてるのではないかと思う。

 音楽は、たとえそれが音盤に刻まれた遠い過去の記録物であったとしても、再生される度ごと新たに誕生しそしてすぐに再び消えてしまう。音楽は、既存のステレオタイプに厳しく拘束され、また、それに強く依存しながら、しかし常に新しくあろうとする。だから音楽は、
聴いて、憶えて、忘れて、
作って、壊して
この循環を、常に繰り返す。その過程の内部に我が身を置くのが「音の世界に生きる」という事であって、そこから遠のいてしまった人に、音楽の魅力が再び訪れる事はない。

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 さて、三味線音楽の旋法性云々が理解されにくい理由は、もう一つ考えられる。すなわち;
洋楽の長短調システムは明快で力強いものなので、それに一旦慣れてしまった耳で、三味線音楽の細やかな違いを聴き分けるのは困難である。西洋音楽の発するまぶしい光に晒されて、江戸の仄か(ほのか)な陰影は、かき消されてしまってるのである。

 私が以前に三味線を習ってた時の先生は昭和ひと桁生まれ世代でしたけど、その年齢層の人でも既に、長唄と常磐津の違いが、もうよく分からなくなってるようでした。
 長唄のレパートリーには、もともとは常磐津の曲であったものを長唄にアレンジし直したものがいくつかあって、曲によっては完全に長唄風に作り替えられてるのもあるけど、中棹を細棹に持ち替えただけのような、内容的には常磐津そのまんまの曲もある。それで私の先生は、その常磐津そのまんまな方の曲を、
「長唄の代表曲、これぞ長唄って感じの曲」
と呼んでたんです。しかし、その曲の三味線の手には常磐津のお約束の形がいくつか用いられてるし、唄と三味線の組合せ方に、通常の長唄とは明らかに異なる特徴がある。だからこれ、どう聴いても常磐津だろというような、少なくとも長唄らしい、長唄のスタイルを代表するような曲ではないのだけど、私の習ってた先生には、それが分からなかったらしい。

*)昭和ひと桁世代というのは、太平洋戦争終結後、アメリカ文化の日本への再流入が急速に起こった時期が青少年期に当たる人達ですので、それより後の、生まれた時から洋楽に取り囲まれてきた世代の人よりむしろ、洋楽ショックを大きく受けてるのかも知れません。

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 ともかく、三味線の専門家の中にも長唄と常磐津の区別が出来ない人もいるくらいなのだから、普段は三味線を聴かない、というかそんなものには興味のない普通の現代日本人であるなら、長唄と常磐津の違いなんて分からなくて当然。しかし、ここで例として挙げた「長唄と常磐津の区別が付く付かない」という問題を、
「旋法性の音楽全般についての、細かい区別やニュアンスの多彩さを認識できるかどうか」
という問題に一般化すれば、これは三味線音楽に限定されない、もう少し広い範囲の人達にも共通の問題となる。これを問題視する意義と理由は、

第一に;
 ジンタや大正演歌といった、そういう時代の流行歌を21世紀人の耳で聴くと、全て一様に暗く陰鬱な曲調と感じられるが、当時の人にはどう聴こえていたかは「よく分からない」。現代の日本人は、19世紀の日本人と同じ気持ちで、これらの曲を聴く事が出来ない。こういった問題は、たいていは流行文化の流行り廃りとして簡単に説明されてしまうのだけど、それをもう少し丁寧に考えてみたい場合、そのための手掛かりの一つとして、これを旋法性の問題と関連付けるのは有効かも知れない。

 現在の我々にとって長唄と常磐津の違いは、三味線をやってる人にしか分からない(やってる人にも分からない)のだが、江戸期の人々にとっては、明らかに別物であった、のかどうかさえ、今となってはよく分からない。こういう問題は、注意深く考えてみる必要があると思う。

 もちろん、100年も前の流行歌を今聴いても面白くないのは当然で、それが理解できなくても少しも困らない、というのも正論だけど、理解できない理由が100年という時間的な距離であるなら、それを地理的な距離に置き換えて、日本からかなり遠い所の、例えばイランで演奏されてるペルシャ古典音楽が理解できないのも当然といえば当然、のような気がしてくる。
 ところが、日本からの距離がイランとたいして違わないヨーロッパの古典音楽や、アメリカのブルース等々なら理解できてるっぽいのは何故か?実際のところ、100年前の自国の音楽を理解できない者が、遠く離れた異国の音楽を理解できたりするのであろうか?それは、理解してるような気になってるだけではないのか?
 いやべつに、分かったような気になってるだけでも本人らが楽しめてるのなら全然オーケー、なのだとしても、洋楽に慣れた事で日本の古い音楽が理解できなくなったというのが本当だとしたら、これは一つの理解を得る事で、その以前の理解を失った、という事になる。なぜ、そういう事が起こるのであろうか?この二つの理解は両立できないのだろうか?そして、両立できない理解の片側に対する忘却(あるいは無視)は、己の無能さに対する無自覚ではなかろうか等々。

 以上は「異文化の受容と理解、その可能性と限界」の問題とも関連してるわけだけど、そこに地理的な異文化性だけでなく、同一地域内での時間的な隔たりと、旋法から和声への変化という要素も絡めてあるのが、視点の置き方としてちょっと面白いのではないかと思うのです。

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旋法性云々の件を問題としなければならない理由の第二は;

 旋法性の音楽は、たいていは非和声的な音楽なのだけど、地球全体でみると、非和声的で旋律重視の音楽の方が多数派である。というか和声的音楽、その中でもとくに、機能和声によって長短調に整理された音楽、即ち調性音楽は、地域的にも歴史的にも、かなり局所的で限定的なものである。だから我々は、旋法性に対する敏感さを失ってはならないのだ。

 ところが調性音楽は、(これに慣れてしまいさえすれば)聴く側にとっては分かりやすく、演奏する側にとっても容易なため、とくにポピュラー音楽では重用され、西欧文化の影響力の強い地域ではおしなべて、あたかもこれが音楽の標準形態であるかのように受け止められている。

 しかし、20世紀以降のポピュラー音楽の最大の生産地であるアメリカでは、西欧起源の調性音楽と、アフリカ起源の旋法的音楽が二本柱となって、常にこれらが相互に影響し合いながら、様々な音楽スタイルを生み出し続けている。アメリカのポピュラー音楽は、それほど調性音楽一辺倒ではない。

 ブルースは和音で伴奏される。しかしその和音連結は、和声を構成してない(つまり機能和声ではない)。つまりブルースは調性音楽ではない。
 ブルースの和音は和声学によって解釈されるべきものではなく、楽器の利用法、つまり管弦楽法に属する問題で、ブルースという音楽の中身は基本、非和声的で旋法的である。
 ブルースはR&B、ロックンロール、ロック、ファンク等の土台ともなってる。従ってこれら諸ジャンルの曲も、多かれ少なかれ旋法的である。

 ジャズはどうかというと、1920年代、ジャズという音楽がアメリカ社会一般に認知され始めた時点でのジャズ・ミュージシャン達の自己認識では、ジャズはRace Musicではない。つまりブルースとは明確に区別されるべきものであった。
 初期のジャズ・ミュージシャン達が胸中に抱いてたのは、黒人の文化程度が向上すれば白人の黒人観も変化し、いずれ人種差別問題も改善されるだろうという、些か理想主義的で夢想的な将来像であった。黒人文化のリーダーを自認するジャズ・ミュージシャン達の矜持は、ジャズ音楽の和声性によって示されていたのである。
 しかし、ジャズが誕生したのと同じ頃にアメリカで起こっていたのは、ジム・クロウ法の成立であった。その後、約半世紀の紆余曲折を経た後、公民権運動が武装闘争へと傾斜するのをもはや押し留めようもない、といった時期になると、ジャズ・ミュージシャンは黒人同士からもアンクル・トム呼ばわりされる存在になってしまった。理想主義は暴力に屈し、ジャズの存在意義は黒人自身によって否定されたのである。

 実際のところのジャズは、当初からブルース的要素を完全に排除しなかったし、B.ストレイホーンはジャズとC.ドビュッシーとを結び付け(1938年以降のD.エリントン楽団)、M.デイビスは4thビルド和音の非機能性を利用した(1950年代末)。だからジャズはむしろ、旋法性の採用に対しては一貫して積極的だったとも言える。
 そうなったのはやはり、ジャズが黒人主体の音楽である以上、旋法性に対して親和的であるのがむしろ当然だ、という理由が考えられるけど、もう一点、調性音楽を生み出した本家本元のヨーロッパでは、20世紀初頭、あるいはそれよりずっと以前の時点で既に、機能和声は過去の遺物になりつつあった、という事情も関係してるのではなかろうか?

・ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の初演は1865年(作曲し終えたのは1859年で、部分初演は1861年)。
・ドビュッシーの「牧神の午後」が1894年。
・シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」が1912年。

 ヨーロッパの音楽家達が、機能和声に対して、これを
「アコーディオンが伸び縮みするような」
と評して疎んじ始めたのはいつ頃か?アコーディオンの発明されたのは1820年代だから、それより少し後の19世紀半ば以降であろう。そしてジャズが生まれた頃、ヨーロッパは既に無調主義にまで突き進んでいた。流石に無調や12音技法は前衛的過ぎたけど、同時期の、例えばR.シュトラウスのようなポピュラーな作曲家でも、用いる和声技法はワグナー以降のもので、20世紀初頭のヨーロッパの、少なくとも音楽の専門家にとって、単純な調性プランしか持たない、ケーデンスの安定性に依存しきった音楽は、時代遅れでダサいものだった。更に、それがアコーディオンになぞらえて評されたのは、そういう旧式の音楽は社会的下層に属するものである、という暗喩も含まれていたに違いない。

 だから、黒人文化の高等性の顕示を自らの使命と心得るジャズ・ミュージシャンであるなら、ヨーロッパでは既に廃れ、賤視されつつある調性音楽などにかまけてはいられない。そのためジャズは、ヨーロッパの最新の、とまでは言えないけど、ポピュラー音楽に許される先進性の上限でもあろうドビュッシーの語法を取り入れたのではなかろうか?そしてそれはまた、ジャズが旋法性に接近するための突破口の役割も果たした。
 と、このように整理した形で書き出すと、整理しすぎたがための嘘臭さも生じてしまうけど、1920年代後半には既に、B.バイダーベックがフランス近代音楽に接近していて(In A Mist(1927))、これは当時のシーンの主流にはならなかったけど、その後しばらくしてからのB.ストレイホーンのチャレンジは成功し、com-dim. scaleとか、ケーデンスとは無関係に(時にはケーデンスを疎外するように)ビルドされるボイシング、それによって醸し出される一種の色彩感、といった諸々は、エリントンに後続するバッパー達やG.エバンス/M.デイビスらにも大いに活用された。だから、Race Musicには接近し過ぎたくはないけど、調性音楽の堅苦しさからは逃れたいジャズにとって、ジャズとドビュッシーの結合は、いろいろ好都合だったに違いないと考えられる。

 なお、ドビュッシーを援用する事でジャズが旋法性へ接近するための道筋を付けたというのは、アフリカ起源の旋法性がアメリカ音楽に浸透していく過程とは全く異なるのだけど、ジャズはもともとDixielandにて、クレオールと開放奴隷との合作として誕生したものだから、フランスに起源の一端を持つという、その側面での一貫性もあるのである。

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 ともかく以上の事から言えるのは、現在の我々が耳にする事の多い音楽は、ポピュラーにしてもそれ以外のものにしても、それほど調性音楽一辺倒ではないのだ、という事ですね。だから我々は、旋法性に対する敏感さを失ってはならないのだ。

 いやしかし、耳にする多くが調性音楽一辺倒ではない、という事はつまり、我々は現状でも旋法性の音楽にそれなりに親しんでる、という事になるはずで、だったら今さら旋法性云々の件を問題とする必要など無さそうにも思われてくる。しかしところが、三味線音楽の旋法の多彩さを聴き取れない人は実際に多くて、そういう、現代日本人にとってはどうでもいいようないわゆる伝統邦楽に対してだけでなく、例えばギターを弾く人なら誰でも多かれ少なかれ手を出すブルースに関しても、これをやってみましょうとなったら、
「ではまずペンタで紋切り型を弾きましょう。あるいはブルーノート・スケールの練習をしましょう。」
といった、おんち丸出しのような事ばかり言い出す先生が多いのは何故か?もちろんこれも、それでかまわないと達観してる人はオーケーですけど、こういう安っぽいメソッドは「教える側の都合」を優先してるだけの場合も多く、教わる側の都合(というより根本動機)に応える事を意図してるわけではない。しかしギター初心者の中にだって、ブルースとは、ステレオタイプのフレーズを切り貼りするだけのママゴトではないし、顔芸でもないと、そう予感してる人達はいるはずなのだ。
 だからといって「ブルースとは何か?」という漠然とした問いに応えるのは難しいけど、旋法性に対する敏感さを取り戻す事、これが何かの役に立ってくれたりはしないだろうか?いや、とくに何の役にも立たないかも知れない。けれど私としてはまあそこら辺を、暇な時にでも良いから少しは考えてみましょうよと提言したいわけです。
・100年前の流行歌は古臭すぎて聴いてられない。
・地球の裏側の音楽は訳が分からない。
・ブルースを弾いてみても充分な満足感が得られない。
この三つの問題には共通の原因があるのではないか?あったらいいな便利だな。その原因を改善したら、三つの問題全てが同時に解決すると、流石にそこまでの好都合は期待してないけど、あちらの問題とこちらの問題を比較対照させる事ができれば、一つ事で行き詰まってるよりも、多少は良い目も出そうに思えます。

 なお先に述べた、ワーグナーが「トリスタン」を初演し、機能和声が「アコーディオンの伸び縮み」と揶揄され始めたというヨーロッパの19世紀後半、それは日本の明治維新期です。つまり日本では、ヨーロッパでは既にダサいものであった機能和声を輸入して、それを西洋音楽の核心部分であるかのように受け取めたのですね。
 尤も、音楽は段階を踏んで学習される必要があり、調性音楽が理解できないと、それ以降のものも理解できないから、調性音楽の学習は当然必要です。しかし、段階を踏んで学習するというのなら、調性音楽に至る以前のもの、ルネッサンスとかアルス・アンティクワとか、あるいはまあグレゴリオ単声聖歌とか、そこら辺にまで遡って順繰りに学習したって良さそうなのに(というか、そうするべきだったと思うのだが)、それらはゴッソリ抜け落ちて、西洋音楽の中でも一番つまらない上澄みのような機能和声ばかりを有り難がったのは、なんだかバカみたいなものでした。

 しかし、そういう生まれ損ないみたいな音楽教育の頂点に立つのが国立の音楽大学である件は、さほど大きな問題ではないと思う。なぜなら、東京芸大の根本性格は師範学校であって、音楽家を育成するための機関ではないから。設立当初には「国楽の創出」という高邁な理念もあったらしい東京芸大なのだけど、いつの間にか
「近代社会のシステム(の、とくに産業と軍事面)に適応できるよう、音楽を利用して全国民を改造するための指導者=師範・教師、の養成所」
という役どころに落ち着いてしまった。だからそこに「作曲科」があるのもお笑い草というか、こういうのは田舎名士が応接間に飾っておく表彰状のようなもので、それが無いとカッコガツカナイ(と本人は思ってる)けど、部外者にジロジロ見られるのも迷惑、というような存在が芸大の作曲科。
 ところが「音楽は、国家が主導して教育したりするものであってはならない」という思想もあって、その立場からすると、国立大の側から率先してオワコンフラグを立てくれてるのはむしろ好都合だから、そういった点まで含めてこれらの全体を評価するなら「さほど大きな問題ではない」というので、まあかまわないのではないかと思う。

 それと日本では、何か大きな自然災害が発生しても被災現場では大きな混乱が発生しない(という事例があった@2011年3月)。これはモラルの問題として説明されがちで、しかもそこには、日本人があたかも生まれながらにしてそういう徳性を持ってるかのような主張が暗に含まれていたりもするのだけど、当時の災害現場のニュース映像を見た外国人の中には、
「群衆がまるでアーミーのように行動する
との感想を持った人もいた。だから日本人のこういう性質は、明治期以来の近代化教育の影響(成果)として生じたのかも知れないのです。
 好き嫌いは別として、自然災害の巣窟であるところの日本列島に人口密度の高い都市文明を築き上げてしまった我々日本人としては、非常時には軍隊的行動を厭わない気質を、多少なりとも持っていた方が安全である。それが明治期以来の教育方針によって植え付けられたものなのかは不明だけど、それが不明なだけに、今はまだ、近代化教育の意義の全てを否定してもかまわないとは思えない。

 しかしだからといって民間の、町場の音楽教室で和声学が教授される際にも、いわゆる芸大和声(を通俗的に簡略化したもの)が第一の規範とされるのはいかがなものか?でもまあこれも、わりとどうでもいいという事にしておきましょうか。何にせよ学習を始める際には「最初の入口・とっかかり」が必要で、それが芸大式だろうとバークレー式その他であろうとかまわない。たかが和声学なのですから、どの入口から入ったかによって、その先一生の行く末が決まってしまうとか、そんな大袈裟な話しではないです。
 しかしもう100年かそれ以上前から、日本での和声学の基礎が調性音楽中心なのは、やっぱりダサいよね。そして、国家推奨の和声の決まり事を遵守しない者を「間違ってる」と決め付けたり、あと和声の問題とは別件だけど、例えば楽曲の小節数は偶数が基本だとか、そういうウソばっかりを自信満々で唱えるヘッポコ先生の巷間にまま散見されるのには弱りますんで、こればかりは流石にどうでもいい事とは申せますまい。音楽家として二流な者は、民間での指導者という立場に身を置いても、当然やはり二流である。それで、二流先生の元に集まるのが二流生徒ばかりなら害を出さずに済みますけど、けしてそういう事はないのでね。
 大多数の楽曲の小節数が偶数であるのは、統計的な所見としては正しいが、音楽の本質とは関係ない。この点を混同する人は耳が悪い。音を聴くよりも数を数える方が得意ならば、その能力に合った職業に就くべきなのに、そうしないのは本人にとっての不幸であるし、周囲も迷惑いたします。

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 さてこれでようやく、今回の題材であるドナドナと、先にちょっと触れたジンタとの関連についての話しをするための準備が整いました。つまり今までのは全て前置きだったんですけど、本論の方はごくあっさりしたものです。要するに、今回はラップ・スチールで演歌ではなくジンタ系の題材を取り上げてみたかったという事です。しかし「美しき天然」ではベタすぎるし、かといって私は、他にどんな曲があるのか知らない。

ところで


The Klezmorim "First Recordings 1976-78"(ARHOOLIE CD 309)
アシュケナジのストリート・ミュージック、クレツマーのバンド"The Klezmorim"が1976年と78年に出したLPを2in1でCD化したもの。
The Klezmorim

 このCDは、もう20年くらい前からの私の愛聴盤なのだけど、曲調がジンタに似てなくもないと、以前から感じてた。
 19世紀中頃の日本に、ユダヤ音楽からの直接的な影響があったとは考えにくいから、この類似性は表面的なものに過ぎないかもだけど、ヨーロッパのサーカスやキャバレーの音楽を介して、いわば一段階迂回した形での影響はあったかも知れない。つまり、当時いろいろ輸入された西洋音楽の中から、日本人は自分らの嗜好に一番合うものをまず抜き出して摂取した。それは、サーカスやキャバレーで演奏されるヨーロッパの雑音楽に含まれている、ロマやクレツマーの要素であったのではなかろうか。

 いや、やはりそういう事は無かったのだとしても、クレツマーは東欧系(あるいはトルコ系、あるいはペルシャ系)の旋法性の音楽と、西欧系和声音楽との奇妙な混合物であるという点で、明治〜大正期の日本の擬似洋楽との共通性は、やはりあるのである。

 しかしそういう事をいうなら、ブルースとかフラメンコとかの、和音の伴奏は伴うけど和声的性格は薄い、半旋法的な音楽というのは他にも沢山ある。しかしそういった諸々の中でも、とくにクレツモリムが用いる旋法は、
・主音(終始音)に対して短三度を持っていて、
・終止形は主音の半音上から下降アプローチする。
という点が江戸期三味線音楽の旋法とよく似てる。そのため、全体的な印象としてクレツモリムとジンタ(というか、明治大正期の日本の擬似洋楽)は似ているように感じられるのではないか?

 とまあそんな理由をこじつけて、ラップ・スチールでクレツモリムのカバーをしてみたいと思ったわけです。というかそんな理屈の以前に、私はこの音盤に収められた楽曲の数々が大好きなのだ。
 しかし、クレツモリムのカバーを行うには高い演奏技術が必要だから、今の自分には無理である。テンポの遅いボーカル曲もあるけど、それらはルーマニアの農民音楽やトランシルバニアの馬子唄に由来するものだから、今回の主旨とは合わない。クレツモリムはほんと諸国諸様式ごちゃまぜの混血音楽だよ。そこで、私の現在の技術でも演奏できる、クレツマーに似たような曲が他にないかと考えたところ、一番無難そうなのはドナドナだったという次第です。

ドナドナ;
1938年、アーロン・ゼイリントン作詞/ショロム・セクンダ作曲。
1940年に(たぶんアメリカで上演された)イディッシュ語ミュージカルで用いられた。
ジョーン・バエズ版がヒットしたのは1961年。
1965年にザ・ピーナッツと岸洋子が日本語版を発売。
1966年にはNHK「みんなのうた」で放送され著名化したのだと思う。

 ちなみに、当コーナーでの前回のラップ・スチールの「お別れ録音」〜花の街・空がこんなにとは「音楽の教科書に載ってるような曲」という共通性もあって、その点でもこの選択は悪くないかなと思います。

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 クレツモリムはメロディーを吹き伸ばす時に独特のしゃくり方をするので、それはハーモニカで真似してみました。結果的には「ちょっとへんなの」になってしまったようだけど、元々のメロディー構造がかなり異なるのだから、どだい無理がありましたわね。

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 ハーモニカ、ナイロン弦ギター、タンバリン、キック(打ち込み)にはプラグイン・エフェクトのMagnetを強めに掛けてます。どのくらい強めかというと、単体で聴けば明らかに歪んでるのが分かるくらいの強さ。
 そこまで強く掛けた理由は、歪ませる事で古式録音の雰囲気に似せたかったという事もありますけど、今回使用したマイク、Oktava MK-319とMagnetの組合せがなかなか良かった。Magnetを強く掛けるとコンプ効果も多めになりますが、そうなるとOktava独特の
「妙なサスティンが付け加わる、音がボワンボワンと膨らむ」
という特性が強調される。それで、Oktavaというマイクはそれくらい極端な使い方をしないと面白くないというか、これこそがOktavaの使いどころではないかという、そういう発見が今回はありました。
 コンプされてる分、収音時に拾った環境ノイズもブーストされてるんだけど、がさごそホコリっぽい雰囲気を作る隠し味になってくれてるかも。

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 マンドリンはピック弾きだけど、1st verseはGroove Tubes POWER PICKで、2nd verse以降はベッコウ製ピックを使いました。以前は、マンドリン用にはPOWER PICKの方が使いやすいと感じてたのに、今回久しぶりに弾いたら、普通のピックの方が良かった。なんでかな?POWER PICKはピックの先端がボディ表板に当たってノイズが出やすいのではありますね。暇つぶしにちょこっと弾くだけならそういう事は気にならないけど、マイクを通すとNG、という事なのかも知れません。
 録った音を聴き比べると、ベッコウピックの方が明らかに「いわゆるいい音」なんだけど、この曲に合う合わないでいったら、もっとペナペナの、安いフラット・マンドリンを掻きむしってるような音の方が良かったなとも思います。


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