(お別れ録音)Teisco J5、2013年6月

2013/08/10
(改)2017/12/25


・ボディ表面には杢入りの化粧板が貼られ、
・ヘッドも樹脂パーツで装飾されてる。
・PUには金ラメ文字でGUITAR MIKEと記されたアクリル・プレートが付けられ、
・シールドプラグがストラトのような斜め挿しになるよう、ジャックプレートがプレス加工されている。

といった特徴を持つTeisco J5。1950年代製のラップ・スチール、EG-Rと同じく、丁寧に作られた工芸品的な製品です。大量生産大量輸出が本格化した1960年代半ば以降の製品とはその点が大きく異なり、同じ会社の製品とも思えないくらいだ。

では、このエレキは何年製なのだろうか?

 リットーのビザール本によると、J-5という型番のソリッド・エレキが新製品として登場したのは1961年。
 ここだけを読むと、じゃあつまりJ5は61年製なんだと思えてしまいますが、しかし61年版のカタログ画像(ビザール本90ページ)に写っているJ-5は、ボディとヘッドの形状、そしてPUとブリッジ周辺のパーツが、今回この記事で取り上げる私が所有していたJ5とは異なり、つまり全くの別物です。

 カタログに載ってる方のJ-5は、説明文によると「鉄芯入り」との事。私が所有してた方のJ5はネックがひどく順ぞりしてたから、たぶん鉄芯は入ってないと思うけど、ネック裏面センターには(メイプル・ワンピース・ネックの裏面と同じような)埋め木があるので、もしかしたら何か入ってるのかも知れない。クラシック・ギターでは鉄ではなく黒檀棒を入れたりするからJ5はそっち系の仕様なのかも知れないけど、本当のところはネックを分解するかX線撮影でもしない限り分かりません。

 以上の事から言えるのは、ビザール本に載ってる61年に発売されたJ-5と、私が所有してた方のJ5とは別の製品だという事で、そのため私が所有してた方のJ5が何年製なのかは、よく分からないのです。62年以降ではないのは間違いなく、では61年なのか?私の印象ではそれより以前、50年代に製造されたもののように感じられます。

 ちなみに、私が所有してた方のJ5には1PU仕様とかトレモロ・ユニット付きとかのバージョン違いが存在し、それらも含めて今までに数本をネット上で見た事があります。つまりごく少量ながらも、それなりの生産数と販売実績はあったらしい。一方、ビザール本のカタログ画像に載ってるJ-5は見た事がありません。

 61年のカタログにはJ-1という製品も載ってますが、この型番は1954年に発売された製品にも用いられており(ビザール本22ページ)、それの外観と仕様は、やはり61年のものとは全く異なる。
 以上ここまで述べた、文書資料と現物との食い違いについての観察結果から、次の二つの仮説が立てられます。

・50年代から用いてた「J」という型番は継承しつつも、仕様を大幅変更した新製品が61年に発売されたのではないか?
・そしてカタログや広告等の記録には残ってないが、Jの1だけでなく2から5までのJも、50年代に既に存在してたのではないか?

 この仮説を打ち消すためには、61年より以前にJ-5は存在しなかった事を証明すればいいのだけど、しかしそれは存在しない事の証明が必要で、はたしてそれは可能だろうか?それになにより、私が所有してたJ5の仕様はとても古くさくて50年代っぽいのである。

 以上をまとめた結論として私は、「J5の製造年はいつか?」という問いに対しては「証明できないけど、たぶん50年代後半」と答えようと思います。

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 でも実際のところ私にとって、そんな詮索はどうでもいいのだ。肝心なのはこのエレキが、外見は丁寧に作られた工芸品のようだけど
・楽器としては使いものにならないチャチなガラクタで、
・音的な特徴もとくになく、
・わざわざ弾いてみたいという気も起きない役立たず
だという事です。自分的にこういうダメギターは、もう弾くのも見るのもイヤなくらいなんですが、「お別れ録音コーナー」の主旨からすると私の所有歴中最古のエレキを外すわけにもいかず、だからこれの音も記録しておくのです。ボディは小さすぎるしネックは順ぞりしすぎだし、ホント弾きにくいエレキだから、録音作業は手短に済ませたい。そういう時はシンプルな伴奏に乗せたシンプルなメロディのぽつぽつ弾きでお茶を濁すのが当ブログの定番パターン。だから曲は何を選んでもいいのだけど、なんでもいいのもむしろ困りもので、でも私は近頃2013年の春期は英米の白人系音楽を多めに聴いてたから、じゃあボブ・ディランにでもしとこうかと考えた。J5でバッキングを弾くなら白玉コードとかカッティングよりも、アルペジオの方が都合良さそうだから、フォーク系から選ぶのが無難。
 しかし歌詞なしインストの題材としては、ボブ・ディランの曲はシンプルすぎる。ならばPPM?などと考えながら音盤ライブラリを繰ってPeter, Paul, and Mary (PPM)の500 Milesを選んだのでした。

■アンプはYAMAHA YTA-25/マイクはAUDIX D1

このギターのコントロールは3ノブで、ネック側から
バランサー/マスターVol./マスターTone
という配置。PUのフロント/リアのセレクト・スイッチがなくて、その代わりバランサー・ノブがあるという回路です。バランサーをセンターにすると音量が下がります。
ギターは6パート。全てJ5です。各パートのノブ設定は以下の通り。

バランサートーン
アルペジオ1センターフル
アルペジオ2
メロディ(高音リア
メロディ(低音フロント
メロディ(ハモリゼロ
スライドフル

ボリュームは全てフルです。バッキングのアルペジオは1パートでは線が細すぎたのでダブル・トラックにしてます。

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■ベースはYAMAHA BB-1200(フレットレス改)
ART DUAL MPM-AUDIO FireWire 410という接続で卓直。DUAL MPの設定の記録はなし。
DAWでEQし、リバーブも掛けてます。設定等についての詳細は後述。

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■マンドリンの収音はMXL 600。プリ・アンプはMindPrint AN/DI
マイク位置はサウンド・ホールほぼ正面。距離は約20cm。

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■録音期間;2013年5月24/25日、6月2日


時間の使い方について;

 今回の録音、ギターは5月24と25日の二日間で録って、その一週間後の6月2日にマンドリンを録り足しました。
・リアPU主体でメロディーを弾く1st verse
・トーンを絞った音を組み合わせた2nd verse
・3rd verseはギターは休みでマンドリン・ソロ
・4th verseはスライドを加え、再びギターでメロディを弾いてEnd
というのが今回の構成ですが、当初の計画ではマンドリンのための3rd verseはありませんでした。しかしJ5だけで3 verses続けて歌メロを弾くという構成で仮ミックスを完成させ、それを試聴してみたところ、退屈極まりない。とくに3rd verseが始まる時の「またかよ感」は不快感さえ伴う、という印象が生じたので、急遽ギター以外の楽器のためもう一つverseを増設したのです(バッキングは2nd verseを流用)。

 J5の音色を記録するためのサンプル・ファイルとしては数種類の奏法(アルペジオ、単音弾き、スライド)とPUの組合せ方の数パターンを順繰りに並べれば、それで事足りるとは思うのです。つまりマンドリンとかを加える必要などない。しかしこの曲をこのテンポ、このアレンジで3 verses聴き続けさせられるのは退屈だった。人によって差はあろうけど、私の場合は2nd verseまではまあ聴けて、しかし3rd verseになった途端「もうやめてくれよ」と思ってしまう。いや、だからこれはサンプル・サウンドなのだよと言っても、楽曲という形式を利用してる以上、いろいろな音が順繰りに並んでるだけでは、どうやらダメみたいなんですね。サンプラーのパッチ選びをしてるのとは違うのです。
 退屈を感じてる状況で鳴らされる音に対しては好印象を持ちにくいし、むしろ悪印象の方を多く残してしまう。その結果サンプル・ファイルとしては逆効果になってしまうならば、退屈感をなくすための方策を講じなくてはならない。

 そこで私がした事は、3rd verseに、それまでには無かった要素、あるいは異物、つまり今回の場合はエレキ以外の楽器、それを登場させる事で、聴者の興味を別方向に向かせ、メロディに対する短期記憶を一旦リセットさせる。そうすれば4th vserseを再び新鮮な気持ちで聴いてもらえるようになるかも知れない。
 結果、それが上手くいってるかどうか自分では判断できませんけど、作者としては当初のギターだけだった時よりかはマンドリンありの方がずっとマシだと思ってます。
 ただ一般的に、演奏時間が長くなるほど最後まで聴いてもらえる可能性は低くなるだろうから、全部を聴いてもらうために尺を足すという作戦にはジレンマがあり、今回の場合は、ギターだけの3 versesなら尺は短いが、退屈(不快)な印象を残す可能性が高いと予想され、マンドリンを加えた4 versesなら、最後まで聴いてもらえる人数は減るかも知れないが、退屈する人の割合も減るかも知れない。この2つの予想像のどちらを採用すべきかという課題に対して、私は尺を伸ばす方を選択したという事です。

 ですが前回の記事(愛の迷い子)では、テンポの調整が的確であれば、曲構成に異物など付け加えなくとも最後まで聴き通し易くなりうる、その可能性について云々してたのに、今回は結局こうかよというのが我ながらアレで、「愛の迷い子」を録音したのは(この記事を書いてる2013年7月現在の)約一年前。対して500 Milesを録ったのは2ヶ月前。となるとこの一年間、オレは一体なにをしてたんだ的な反省も生じるけど、実は曲構成に異物を入れるのは、つまり歌を2 verses続けた後に間奏を入れたりするのは、ポピュラー音楽ではごく当たり前の事ではあります。

 ちなみにテンポについては、今回もPPMのオリジナル音源のテンポの揺れを、2nd verseまではコピーしてます(3rdと4th verseは2ndまでのテンポ・データをコピぺしただけ、だったはず)。

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 時間の使い方という問題について他にも色々書いておきたい事があるのだけど、まだ考えがまとまってなかったり、調査中・実験中の事も多いから、今回は概略を箇条書きするだけで。

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時間の構成の仕方とは、今回の作例に則して言えば、
・verseの増減とか
・増やすとしたら、その中身をどうすべきかとか
・あるいはテンポを揺らすとか
・あるいはそれらとは全く別の手段

芸能者は観客や視聴者の関心を自分に引き付けておく必要があるから、相手を楽しませ、退屈させまいと努める。
相手を退屈させないための手段は何通りもあるのだろうけど、それらは観客の興味を
・一点に集中・固着させる
・分散させる
の二通りに、大きく分類出来るのではなかろうか。

興味を集中させるのは目的追求型、あるいは達成感を得たい欲求を利用する事
興味を分散させるのは、同じ事の繰り返しを嫌う脳の特性に応じての事

状況を単純化するため「大道芸人」の行動をモデル・ケースとしてみると、
開始;客寄せ
終了;投げ銭を得る

それで大事なのは、寄せ集めた観客から投げ銭を得られるように、上演中の時間を構成する事。時間を上手く使う事である。

 「時間の構成の仕方」の上手い下手に応じて、見物衆の財布のヒモは、緩くもなれば渋くもなる。技芸の巧みさとか、演目の多さ、豪華さ美麗さに応じてではない。生活必需品や実用品の商取引ならば、支払われる金額と、それによって入手できるものの「量」は正比例するが、芸能への対価とは、それらとは少々異なる基準によって決定される。

 芸能の価値には、「数」で大小を比較し、「量」を計る事の出来る、そのような側面もたしかにある。加点方式or減点方式による評価。(作業量が)多いほどエラい。(到達点が)遠いほどエラい等々。そのため、スポーツ競技化する芸能、芸能とスポーツとの中間的な(両方の性格を持った)技芸も存在する(フィギア・スケート等)。

 では、時間の使い方の上手い下手を、数量で計れるだろうか?
(念のため、ここでいう時間の使い方の上手い下手とは、製造業等での時間効率とは全くべつのものである)
時間とはそもそも、量概念を受け付けない。
物理での、相対的な長短に限ってなら、時間を数で表す事は可能だが、そうやって数値化された時間の長短は、人間の主観が捉えるそれには当てはまらない。時間が物理の現象かどうかすら、本当は不確かなのではなかろうか。

ところが、時間の使い方に上手い下手の違いがあるという事、時間の使い方が上手い人と下手な人がいる事は、私達は経験上よく知っている。
例えば、2時間以上の長い映画でも、時間の使い方が上手いスタッフの作ったものなら、あっという間に全部を見終わってしまう。
体感時間は延び縮する。そして、2時間があっという間だった映画と、そうではなかった映画とを比べたら、たいていの人は「あっという間」の方を好評価する。この事から、
多くの人は、体感時間(主観的時間)を縮小させるタイプの体験から快楽を得るらしい。
と推測できる。

いや、一般的には「楽しい時間は早く過ぎる」と言い表される。映画の「中身」が楽しかったから時間は短く感じられた、と主観される。それを逆方向から観察すると、「体感時間を減少させると快楽が生じる」という記述になる。
観客側の主観では「楽しいから早く過ぎた」と認識される現象を、演じる側は意図的に、他人の心の中に作り出す必要がある。そのため、現象を記述する方向が逆になるのである。

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「楽しいこと」というのが、自己の外側に存在する何かしらであるなら、観客にとっての「楽しいこと」とは他者から与えられるものだという事になる(この場合の他者とは、観客と同じ人間である芸能者だけでなく、自然現象などでも可)。
あるいは、観客が「楽しいこと」を発見するのである。
演者側にとっても「楽しいこと」が外的存在であるなら、芸能とは、外的対象としての「楽しいこと」を演者が観客に受け渡すためのであると理解される。
あるいは演者:観客という区別に重要性はなく、オブジェクトとしての「楽しいこと」を相異なる方向から相互批評し合う場が芸能であるという考え方、これはとくにサブカル二次創作や古典和歌鑑賞などの「煮詰まりきった」文化ジャンルに限ってなら、よく当てはまるように思われる。

「楽しいこと」が、演者の内側に存するものであるなら、観客は、演者が「楽しいこと」を創造したのだと認識する。この観点は、天才論の基盤でもある。

「楽しいこと」は、演者・観客のどちらにとっても自己の内側に存するものと仮定するのも可能である。
その場合の「楽しいこと」は、他人同士の心の中にそれぞれ別個に存在する事になり、人物Aが人物Bの心の中に、人物Aが企図する通りの「楽しさ」を発生させようとするなら、テレパシーでも使わないと無理である。そして、テレパシーは存在しない(と考えるべきであろう)。
しかし時間を利用すれば、他人の心の中に、概ねこちらが企図した通りの「楽しさ」を生じさせられるのではなかろうかという可能性について云々するのが本稿の主旨。

以上、観客と演者の双方について「楽しいこと」が外側にあるか内側か。これをマトリックスに展開すると4マスになり、その順列組合せは4通り。それらの中のどれか一つだけが正しいと決めつける必要はなく、そもそもこれは正しさなどを問うべき問題ではなく、順列組合せを変えると、現象の記述形態も変わる。その何通りかある記述方法の中に、演者にとってより良い(あるいは便利な)何かがないかを探ってみようという話しです。

順列組合せ4通りの最後の一つは、「楽しいこと」が演者の外在、観客の内在という組合せ。これは観客の内部にあって、外部にはまだ知られてない(観客自身にも知られてない可能性もある)「楽しいこと」が、演者にとっては既に外部にあって、操作可能なオブジェクトだという事だから、時系列的生起順(因果)に反してる。しかしそれでも、この組合せについて云々するのは可能だし、そうする意義もあろう。しかしそのためには、そもそも「楽しいこと」とは何なのかとか、それが実在するとはどういう事かなどをキチンと定義せねばならない。

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芸能者は、あっという間に過ぎた、楽しく過ごせた、あるいは最低でも苦痛を感じずに過ごせたと、観客に主観させるように、時間を構成しなくてはならない。
そのための方法論はあるのだろうか?
たいていのポピュラー歌曲は、どれも概ね同じような曲構成で出来ている(前奏→歌が1番と2番、そして間奏、その後は歌のサビだけもう一回とかCメロが付け加わるとか色々あってEND)
TVアニメは、とくに1クール12話程度の小サイズで完結する深夜アニメは、各話へのエピソード配分(シリーズ構成)の方法に一定のパターンがある。
・第1話では、物語の基本軸の呈示(主人公が誰であるか。彼が置かれた世界の状況。そこで彼が果たすべき役割など)
・4話目くらいまではサブ・キャラを順次紹介。あとは世界観への補足説明など
・概ね5話以降の中盤は、起承転結の、序破急のに相当。序盤で示された世界観が動揺したり否定されたりする
・終盤は、基本的世界観の再呈示。それは中盤に起こったあれこれによって変質してるかもしれないし、それを再否定して、基本軸の意義がより強固なものとなってるかも知れない
最終話がどういう結末になるかは作品によって様々だけど、中盤までの構成は、作品内容が英雄冒険譚であろうとラブコメであろうと、あるいはほのぼの日常系であろうと、けっこうどれも共通。

英雄冒険譚は、複数の小エピソード(ユニット)の組合せで成り立ってるものが多く、そのユニットの組合せ方にも定番のパターンがある。
・主人公の誕生
・彼の出自の特異性の説明
・故郷からの離脱
・仲間集め
・悪との戦いと勝利
・故郷への帰還
・報酬の受理(王子の物語-王位継承譚-なら、戴冠)

アニメの各1話とは、歌の1 verseと同じような一つの時間単位であり、1クール12話のアニメ作品とは、12 verseの楽曲のようなもの。その12話の中に、上記の小エピソードユニットが配分されてる。原作はけしてすんなりと割り切れるようには出来てないから、シリーズ構成の出来不出来も生じるわけだけど、

ともかくこういった諸々を時系列上に配置する、あるいは組み合わせる、そのやり方には定番の方法があるわけだ。
これが定番化したのは、この方法に則れば良い結果を得やすいからである。
以上の事からは、時間を構成する方法論は確立されてると言える。
しかし、世にあまたの音盤やアニメ作品のある中で、たいていは定番の時間構成法に従ってるのに、面白いと感じられる作品はごく一部である。だから、方法論が確立してる事と、それで面白い作品が作れるかどうかは別問題である。

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ちなみに、近年流行の廃部寸前弱小クラブ系の物語は、まず冒頭に「仲間集め」があり、半年か一年後かに何らかの結果(成功譚なら「報酬」)が生じる。
外観は女子しか出てこないとか、とくべつ活発に活動しないとかでも、物語の構造は少年マンガ的にとっても王道。
だから人気が高いんですねたぶん。

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ところで上述した深夜アニメのシリーズ構成。序盤はキャラ立てで中盤は展開部という組合せ、これはウィーン古典派のソナタ形式と似てる。ソナタ形式は、
・第一主題の提示(アニメの第1話、主軸の呈示に相当)
・第二主題の提示(サブキャラ登場)
・展開部(アニメも同じ)

ここまではソナタもアニメもほぼ同じ。ソナタはこの次に「再現部」があって、主題の呈示をもう一度行うのがお約束。そして「終結部(コーダ)」という構成。
アニメにも再現部的なものがあるとしたら、冒険譚で、一度出発地点に戻ったり、魔法少女が魔力を失って一旦普通の人間に戻されて、戦う事の意義を再定義するとかして、最終話(コーダ)に至る、というような流れですかね。
日本のアニメに限った事かも知れないけど、起承転結よりかは序破急展開が多いのがアニメなので、ソナタの再現部に相当する要素は省略されがちなのかも。
12話で完結させるため、不必要なものは省く。そのためアニメの再現部的なユニットは省略されがちなのかも。
深夜アニメは、録画される事が多い。となると、再現部の必要・不要は視聴者側がコントロール可能。つまり8話目くらいで「一旦おさらい」したいと思ったら、1〜3話あたりをもう一度見ればよい。だから深夜アニメの再現部は省略されがちなのかも。
制作者側からすると、再現部を省略する分、別の要素を1クール内に収める事が出来る。

ともかく肝心な事は、ソナタとは物語形式なのだ、という事。
私は今までソナタって何なのかよく分からなかった。なんでこの(主題の提示部が2つ、そのあと展開部、そして再現部等々の)要素配置の仕方が、西欧音楽史上で最も重要な発明品の一つとされるのか?分かってしまえばなんのことはない、ソナタは物語の構造を持っている(あるいはそれを模したもの、あるいはそれに倣ったもの)、だという事ですね。

あるいは小さな時間単位(ソナタ楽章内の一楽節とか、アニメの一話分とか)を複数組み合わせたユニット型構造体に、一貫性を持たせよう(あるいはその構造体の中に長編物語を詰め込もう)と企図した際に適した合理的で定番化した方法がある、という事。

私にそれを気付かせてくれたのはアニメ。やはりアニメは素晴らしい。ありがとうアニメ☆

ロマン派のソナタは多主題化したりしたけど、これもアニメ(マンガ)のキャラインフレやパワーインフレみたいなものだと思えば分かりやすい。物語構造の方を革新できなければ、そうなっちゃうよねって話しです。西欧音楽は結局、ソナタ形式を捨てた。日本のマンガは、今のところ従来の方式で延命出来てるみたい(パワーインフレを更に極めようとするのは少数派で、物語構造を改そうとしてる人の方が多いかも、と思うのは、私の嗜好で選ぶ作品は後者型が多いからそう思えるだけかもですが)。

ベートーベン自身も、晩年は定式通りのソナタ形式は書かなくなった。それでこの、後期ベートーベンのソナタというのも私にとって長らく謎音楽だったのだけど、

・青年期までのソナタは、かっちり書かれた論文みたい。
・その後、私小説みたいな時期を経て、
・晩年は書きかけの随筆、しまいには想念ダダ漏れのオートマティズムポエムみたいになる。
・各楽節の区切りが曖昧だったり、再現部の再現性が高くなかったり、展開部が短すぎたり、その代わり定式にはないユニットが現れたり。
・とはいえフランス近代の音楽詩とも違う。多楽章形式だし。
・最終楽章が変奏曲ばっかりなのも謎。変奏技術も、前時代の基準からしたら改しすぎだったり、テーマなし変奏曲だったり。

といった諸々も、アニメとの類比で見直せばよく分かる。
スタイルが完成され煮詰まると、同じ事を二度も言うのは野暮と感じられてくる。
明確な再現部は、聴く側の脳内におまかせ。
有限なサイズに、よりたくさんの情報を詰め込もうとするようになる。

ベートーベンの後期作品は分かりにくいとされるけど、彼は聴く側に、より多くの情報処理能力と記憶力を求めてるわけだ。ベートーベン氏が想定してる聴者レベルに満たない人にとって、氏の曲は難解。

晩年の変奏曲も、これはキャラ立て命の萌えアニメみたいなものだと思って聴き直してみたら、とたんに分かりやすくなってびっくり。
キャラを強く立たせるには、当人にいろいろさせるより、サブキャラsからの別視点を交錯させるのが効果的、というのと同じですね。

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芸能にとってオチは、非常に大切なものである。

 オチは、芸能の時間に「終わり」の標識を付け、芸能の時間を単位化する。
 一つの演目(あるいはネタ等)が開始されてから終了するまでの(数十秒とか数分とかの)実時間(時計で計れる時間)は、オチによって演目が〆られた瞬間に、心理的・体感的な時間量に換算され、その長短が計量され、そこから快楽が得られたと判断されたなら、その対価として、あるいは更に快楽を発生させるのを促すために、観客は演者に報酬を渡す。
 つまり演目の「長さ」は、オチが付いた時点から逆算され、オチの印象によって長くもなれば短くもなる。

音楽でのオチとは何か;
 旋律形・楽式感・和声の三要素の連動によって形成される一楽節・一段落の終結を示すフレーズなりなんなりであろう。私が重要と思う順番は、
1a.旋律
1b.楽式感
2.和声
である。いずれもそれ単体ではオチを形成しえないが、和声を持たない音楽にもオチはあるのだから、つまり和声は必須の要素ではない。ケーデンスには常に小段落を形成させる能力があるが、小段落がいくつ集まってもそれだけでは一つの統合体、つまり一楽節と認識される全体像は浮かび上がってこない。複数のケーデンスを統合して一つの楽節にまとめ上げるのは、和声とはまた別の要素である。これは旋律・楽節についても同じ事が言える。無伴奏の旋律、例えばフルートの独奏を聴いて、そこにオチがあると感じられたなら、その旋律には楽式感が備わってたという事になる。バッハの無伴奏フルート・パルティータでは、単音の旋律のみで和声が示される。旋律・楽式感・和声、この三要素は常に連動するのである。

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アニメの一話は、一話完結型と「来週に続く」(引き)の2通りある。
完結型はほとんどどれも(落語でいうところの)こっけいオチで一話が〆括られる。このオチは「終わり」を示す標識なので、とくだん笑えるものでなくともOK。
完結型も、実際は結尾に「予告編」が付くので「引き」要素は毎話必ずあるとも言えるけど、
・クール序盤のキャラ立て中は、一話で一キャラ立てて完結。予告編で次週に登場する新キャラが明示される(次週の内容は予想しやすい)。
・クール中盤の、とくにシリアス引きで終わる場合は、予告編でも「どうなるか分からない感」が更に強調される。

この2通りの〆方を組み合わせる事で、視聴者の関心を途切らせないよう工夫する。その組合せ方も概ね定型化してるかな。
真性ギャグマンガは基本、全回一話完結型。

私個人的には、長編ものであっても一話完結型主体でシリーズ構成されてる方が好き。引きが2週以上続くと視聴継続が面倒になる。
「さて!来週はどうなる?隠された真実がいよいよ明らかに?」
みたいな煽りを毎回されると、べつにいいよそんなもの、どーせ作り話なんだし#という感情が一気に意識上層に浮かび上がるので、そうならないよう上手くこちらを騙してくれる作品が良いですね。
序盤キャラ立ても、いつまでも続いてると飽きる。

↑以上の所見を自分の録音作業に応用出来ないかを検討すべい。

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「相手を退屈させない」という事について;

まず、2種類の区別。
1.長い時間に、最後まで付き合わせる
一つの時間単位、アニメの一話、音楽の一楽節を全部経験してもらう。音楽の一楽節はたいして長い時間ではないですけど。
2.来週もまた見させる
次の時間単位まで、興味・期待感を持続させる。音楽の場合は切れ目なしに次の楽節に移行しますが、アニメの場合は一週間またせる。

1.長い時間に最後まで付き合わせる、は更に、
A.時間枠が所与の条件として定められてる
B.増減が自由
の2通りに区別される。アニメは1話正味20数分という厳格な枠組みがある。
音楽の、とくに器楽の作曲と即興演奏は、作曲者あるいは演奏者の裁量で、長くもなれば短くもなる。

今回の500 Milesは、三つの時間単位を全て興味を失わせずに聴いてもらうため、あえて途中に本来不要な時間単位を継ぎ足してみました、という作例。

相手を退屈させまいとして常に目先を変える、また、沢山の情報を詰め込む、というのはありがちだけど、それは情報インフレとカンフル効果を生じさせるだけ。
大量の情報を浴びせられた観客は、顔は笑っていていても目は死んでる、という事もある。

退屈される事を恐れる必要はない。オチが良ければ、その前に退屈した分はボーナス点に置換される可能性すらある。オチさえ良ければですが。
もちろん、わざわざ意味のない時間帯を作るのは×

全体像を理解してもらうためには内容的にどうしても必要だが、エンタメとしては辛い、という時間帯が発生するのはしょうがない事で、それを必要だと知りつつ省略してしまう演者はビビリ。
そういう芸ばかりしてると、全体像を理解する気などハナから無い、そもそも「全体像」があるなんて考えた事もない、という人種しか集められなくなる。
近年のハリウッド映画は、そういうのが多いかも。常に移民が流入してくる国のエンタメは、そんなんで回せるのかも知れない。いっちゃ悪いが、家畜飼料みたいな映画である。
日本は島国で、良くも悪くもどんどん煮詰まってしまうのが特徴。

退屈な時間帯が生じても、それが必要なものなら省略してはならない。「退屈だ」という観客の感情は、オチで一気に消し飛ばすのが可能なのだから。


ベースの処理について;

今回のベースには、
・音量小さめで目立たないよう、
・アクセントの角が立たないよう、
・しかしミックス全体を下支え出来るだけの圧力は保つ。
という役割をして欲しかったので、そうなるように後加工してみました。

 まず、楽器側のトーンは全開で録音してしまったのだけど、それではアクセントが強く付きすぎだったので(そして録り直すのも面倒だったので)かなり極端な設定のEQ処理をしました。

更にリバーブも掛けてます。設定は、

 ベースの残響で、ギターのサスティンが短いために生じる音の隙間を埋めようという意図のリバーブです。ライブ演奏で、ドラムありで、テンポ早めなら、ベースを膨らますなんて禁則の第一項みたいなものだけど、この曲この編成に限ってなら、こういうのもありかなと思う。

 WAVESではなくt.c.のリバーブにしたのは、WAVESの方が高級なだけにミックスに馴染みやすく、今回の場合はとろけやすく、ミックス全体が団子になりすぎるかも知れないから、WAVESよりも硬くて金属的なt.c.を選択。両方を比較試聴して決めたわけではないので、実際にどちらが効果的だったかは分かりません。出来上がった感じでは、やはりちょっと金属的なのがイマイチのようにも思えます。

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 J5のフレットは、大量生産期になってからのあの悪名高き針金フレットと比べたら、ずっとマトモな形状のものでした。これでネックが順ぞりしてさえいなければ、それなりに弾きやすいエレキだったかも知れません。

 フレット端の処理も丁寧で、↑の画像だけ見てると、リフレットされてるかのようにも思えてきますが、実際の形状は(針金フレットよりかはマシとはいえ)現代の標準的なフレットと比べれば、高さは低いものでした。
 フレット端が指板からやや飛び出して、バインディングが波打ってるのもリフレットっぽいですけど、指板材の方が経年変化で乾燥して縮んでもこうなるので、やはりこのフレットはオリジナルだと私は考えます。

 こういう点を見ても、テスコ製のエレキは60年代よりかは50年代の方が、いく分かはマシであったと思われてきます。とはいえ量産体勢に対応できる程の技術的基盤やノウハウの蓄積はまだ無く、しかしその状態で60年代のエレキ・ブームに巻き込まれ、うっかり触ったらかえってギターが下手になってしまうような、スゴロクの「三つ戻るのマス目」のようなエレキを世間に大量にばらまいた挙げ句、70年代を待たずして消滅してしまった。もしもエレキ・ブームの起きるのがあと10年遅かったら、日本のギター産業の有様も、今とはかなり違ってたのかも知れません。

 尤も、60年代当時に製造技術の低い、楽器らしい楽器など作れぬに等しいメーカーが、それでも大量輸出を行いえた第一の理由は「安いから」で、しかもその安さというのも1ドル=360円という、当時の経済実態にはそぐわない(アメリカ側からすると不当に円安な)固定為替制度が終戦直後以来放置されていた、その最後の時期とエレキ・ブームの発生時期とがたまたま重なったからなのでもあり、しかしブームはいずれ去るものだし、不合理な為替制度は是正されるべきものだし、そうなれば安売りビジネス・モデルは崩壊する。これは必然的な流れでした。
 それに70年代になってからは、「コピー」という方式での製品研究に対しては熱心になったけど、独自開発には時間もコストも掛けず、そのくせ中学生が思いついちゃったレベルの新機構を「オリジナル」と称して販売したりして、やってる事は60年代と変わらない。だから日本のエレキ製造業界の末路は、エレキ・ブームの起きる時期が10年速かろうと遅かろうと、どのみち同じだったのかも知れません。なんて、今さら考える甲斐もない事ですけど。


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