2006/01/11(その3)
十番商店街を通り抜けた先に六本木ヒルズ。テレビ朝日のビルが建つのは「旧毛利藩上屋敷跡」です……これ、ネットを何件か検索して「上」屋敷である事を確認しているので間違いではないと思うのですが、麻布といえば当時の江戸市域の一番の外れ。それと比べて、例えば井伊の上屋敷は江戸城の真ん前、中屋敷は紀尾井坂・現在のホテルニューオータニ、下屋敷が現在の明治神宮ですから……つまり徳川による外様大名の冷遇というのも、ずいぶん「あからさまなものだった」という事でしょうか。

ただこの土地は上屋敷としては規模が大きすぎ。また、ここかちょっと北に行ったところにある旧防衛庁跡地は毛利家屋敷、赤坂・檜坂公園は屋敷らしい……つまり現在の六本木交差点付近を頂上とする丘の周辺に毛利の屋敷がまとめて配置されていた事になり、これは譜代大名の方でいう「上・中・下」とはまた違った意味合いで「上屋敷」等の名称が用いられていたのかも知れません。

まぁよくわからないんですが。

六本木方面には今までほとんど用事の無かった僕ですが、ここだけは15年ぐらい前に何度か訪れた事があります。旧家の家屋(もしかしたら土蔵だったかも。要するに毛利家ゆかりのものという事になりますか)を改造したレストランがあって、そこに時々来る用事があったのですね。
その頃のこの一帯は鬱蒼とした、ちょっと物凄い雰囲気のところだったんですが現在は……現在でも何と申しましょうか、独特の雰囲気のあるスポットでございますね。立地の関係なのか、一日の大部分が日陰に入っているように思えます。

この毛利藩の屋敷について、歴史読み物時代劇などで話題になるのは忠臣蔵のからみで、吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士の預け先であり、切腹もした、そこが毛利藩邸である……というのが一番有名な話でしょうか。

ちなみに、せっかくググったのでメモメモ……討ち入り後の赤穂浪士、そのお預けの内訳。
・熊本細川家 17名
・松山松平家 10名
・長府毛利家 10名
・岡崎水野家 9名
合計46名。一人だけ報告役として、赤穂に帰ったんだっけか……




冬の木の実は、なぜ紅いのか。


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