2008/01/26(その1)

東京メトロ丸ノ内線の四ッ谷駅。前回この場所から撮影したのは約4年前。ホームに自動ドアが設置され、旧Sマークも、当然廃され。


赤坂見附方面側ホームの端。冬枯れた木立の向こうには迎賓館があります。


線路は四角いトンネルに吸い込まれる、その画面向かって左側に、


上智大学のグラウンド。江戸時代には、ここも外濠だったわけですが、いつの頃か埋め立てられました。
なんですけど、もしかしたらここは江戸時代中に既に水が涸れて、「空濠」になってたかも知れませんね。

「もしかしたら」なんて言ってないでちゃんと調べたら良さそうなものですが、すみません、面倒くさがってまだ調べてません。

なぜそう思うかというと、このグラウンドの西側(画面向かって右側)には迎賓館(旧紀伊徳川家藩邸)があって、そこは高台になってるんですが、そのさらに西側は窪地になり、江戸時代にはここに鮫川という川が流れてました。鮫川橋という橋も架けられており、その辺りを四谷鮫川町と呼んでした。
しかし江戸時代中に鮫川の水は涸れてしまい、橋も廃され、鮫川町という町名、あるいは鮫川橋という通称名だけが残された、という状態になっていたんですね。そのため、
「水もないのに橋とは、一体どういうわけだえ?」
みたいな台詞が、鶴屋南北の作品『盟三五大切』(かみかけてさんごだいせつ)の中に出てきたりします。

ちなみに、四谷鮫川町からさらに西に少し行ったところが四谷左門町、即ち『東海道四谷怪談』(お岩さん)の舞台なわけで、つまりここら辺は「南北好み」の土地柄だったのでもあります。

江戸城の濠は、内濠も外濠も見附によって細かく区切られ、各区分には標高差が付けられてます。一番高いところにある濠の水源は、湧水か雨水で、それが順繰りに低い方に流れていく事で曲輪(くるわ)、即ち円周状の濠全体の水量を維持してる(らしい。少なくとも内濠はそういう仕組みになってるはず)。
外濠で一番標高が高いのは、現在上智大学のグラウンドになってるここなのですね。「外濠の中で」というより、この一帯は江戸市周辺部の中では、神田山(駿河台)に次いで標高の高い地域。それでも、少なくとも江戸時代初期にはこの近所に鮫川が流れていたわけですから、湧水などの水源が存在したのでしょう。外濠として利用出来るほどの、大きな沼地も存在したのかも知れない(というか、そういう自然の地形が予め存在したからこそ、ここが外濠になってるわけですが)。
しかし地下水をくみ上げ過ぎたか何かで、江戸時代中に水源が枯渇してしまったのではなかろうかと想像。



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