2008/09/10(その14)

昼の部を見終わった人達が続々と捌けていきます。これから夜の部を見る人も既に人だかりをなし、劇場前はごった返しております。


劇場を出ると、そこは東洋一の歓楽街・新宿歌舞伎町。


現在は夕方の5時少し前。歌舞伎町の一日は、これからが本番。

劇場はその内側だけでなく外側、というか立地条件的にも、町全体の温度感が高く、雑多で猥雑なものに囲まれてる方が良いですね。というか、そうでなくてはダメだよなって改めて思いました。
千代田区隼町、町自体が一種の化石であるかのような、あの官庁街で博物館と化した国立劇場は論外として、東銀座の歌舞伎座もなんだか町外れな感じがして(夜の部が終わった後外に出ると、けっこう真っ暗ですから)。面白いものを見終わって、それで表に出た途端に気持ちが冷めてしまうような場所にある劇場は、私はちょっとイヤだな。

「歌舞伎町」というのは終戦直後の1945年、ここに歌舞伎の劇場を作る計画が持ち上がり、その時に付けられた町名です。その計画は頓挫したのですが、計画通りに事が運んでいれば、現在の東銀座ではなくこの町が歌舞伎の本拠地となっていたかも知れないんですね。

以下はウィキを要約しつつコピペ;
歌舞伎町は、第二次大戦後の戦災復興の時期に誕生した。
1948年4月1日;角筈、百人町・西大久保・三光町のそれぞれ一部を区画整備し、歌舞伎町として起立(現在のように丁目はなく番地と号数のみのいわゆる一町画)。当時の歌舞伎町の範囲は、おおむね現在の歌舞伎町一丁目に相当する。
1978年;住居表示実施に伴い町名町域が変更され、現在に至る。

元々は、「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と長崎藩邸があったところで、明治以降は鴨場となっていた。
1893年;淀橋浄水場建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられ、造成される。
1920年;東京府立第五女学校(現在の東京都立富士高等学校)がこの地に開校。学校を取り巻く周囲は閑静な山の手の住宅街として大臣や軍人の邸宅もあり発展していった。
1945年;東京大空襲で一面焼け野原となったが、戦後、「(現在の歌舞伎町一番街付近に)歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられた。この都市計画から、新しい町は「歌舞伎町」と名付けられた。
結局、財政の面などからこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまったものの(1956年12月開場)、歌舞伎町は東京でいち早く戦災復興を成し遂げた。 その主役となったのは在日華僑たちであり、現在の隆盛の一翼を担ったのは有名である。その一人にヒューマックスの創始者である林以文がいる。キャバレーの経営者にすぎなかった彼の成功物語は神話となっている。

・東京大空襲では大劇場を含む20軒あまりが被災。歌舞伎座・新橋演舞場も焼け落ち、終戦直後の数年間、東京には歌舞伎を上演するための大劇場が存在しなかった。
・当時の新宿大久保界隈は、女学校と閑静な山の手の住宅街のある地域であった。
・山手線と中央線が交差する交通の要衝であり、とくに、戦後は都民の主要な住宅地域となる東京西部からのアクセスが良い。

終戦直後の劇界の状況と、その頃の新宿〜大久保界隈のあり方、この二つを重ね合わせてみると、ここに「芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という都市計画には、充分な合理性と先見性があったと言えます。もしもここに歌舞伎のための劇場が建設されていたら、その後のいわゆる「伝統芸能」のあり方も、現在とはかなり様子の違うものになっていたかも知れませんね。

もちろん、それにしたって歌舞伎町は「猥雑すぎ」で、歌舞伎にふさわしい場所柄ではないと思う人もいるかも知れませんけれど、それは、現在の現実の歌舞伎は銀座にあるものという先入観が強すぎるから、そんな風に思えるだけなのかも知れませんですよ。



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