花の季節 2007

2007/04/01

このコーナーも4年目でして、さすがに今年は去年2006年版と比べても、もう目新しい内容はとくに無いです(菜の花が増えた事くらい)。それでも「石の上に三年」じゃないですけど、毎年同じ事を繰り返してるうち「おっ」と思うような事もあるもので、人が花に惹かれる、その理由が今年はちょっと分かったような気がいたします。

「花は心を写す鏡」

という、まぁわりと当たり前というか、それほど新味もないような事ですけど、そのような「実感」がふと湧いてきた2007年です。

髪型や服装が乱れてないかを(普通の)鏡で確かめるように、わたしの心も「へん」になっていないかどうか、それを時々確かめられる鏡があれば良いんですが、もちろんそんな便利な道具のある筈がなく。もちろん花を見たってダメなんですが、人はそういう鏡を求めるものです。「僕の撮った花の写真に、僕の心が写ってる」というような事でもないですね。心は目に見えないものです。



日本の古い絵画では、よく「雪月花」(せつげっか)という題材が描かれますが、無常観あるいは浮世思想の立場からこの題材を解釈してみると、

雪=時間の停止した世界
花=時間が、はかなく過ぎ去る世界
月=循環する時間

をそれぞれ表している(ような気がしてきた)。雪と花は「死」の二相(停止としての死と消滅としての死)を象徴し、月は時間(生死)の埒外にある存在(あるいは意識)の象徴の役割を担ってる。そういう構図が見えてきます。「月=超自我のシンボル」と言ってもいいですね。「雪月花」の描き手は、この三者を画中でどう扱うかによって、書き手自身の「生死観」を表現する事が出来る。「雪月花」とはそういう仕組みを持った題材であり、それは織豊〜江戸期にかけて政府強権の規制を受け、「近代化」を妨げられた日本の宗教と哲学が本来果たすべきであった役割を、部分的にでも代替するために利用されてきた芸術様式だった……

かも知れませんねという事で、そういう観点から(今後機会があれば)「雪月花」の絵を見直してみようと思った。


ところで

雪・月・花というのは昭和の歌謡曲の歌詞中に、やはり「象徴的な意味を持って」頻繁に用いられる語でもあります。その担わされる意味や用法はとくに定まっていませんが、例えば

雪=北国=放浪する人生の終焉地
花=色恋の象徴・装飾として幅広く用いられる
月=常に変化して止む事のない人の世を、上空から見下ろす超越的存在

こういう使い方をされてる事が多い(と思う)。そして

雪→終焉の地=時間の停止
花→恋=はかないもの

ですから歌謡曲中の雪月花も絵画の雪月花の象徴(として僕が勝手に、根拠なく説明した上記文)と似たような意味を持っている。

歌の中の月は超越者というより、もう少し親しみの持てる存在で、現在と過去の自分を見比べるような場面に登場してくる事が多い。つまり歌の世界では月がの役割を担ってる点が絵画の雪月花とはちょっと違いますが、この月=鏡の構図は1970年代以降は荒井由美に引き継がれ……みたいな事を書き出すときりがありません。

ともあれ、絵にも歌にも登場する「雪月花」、この三つの語が頻繁に用いられていた昭和歌謡とは、その外見は往々にして軽佻浮薄淫靡猥褻な相貌を示すものであるが、根本には「人の生と死を意味付け、それを描き歌う」ことを意図した、つまり哲学的な志向を持った大衆芸術であり、それを個人的な主張として表明するのではなく、人と社会の姿をありのままに(時には傍観者的な立場から)描き出す手法が多い点で「自然主義芸術」的な性格を持つものである……

かも知れませんねという事で、この問題はとくに「歌謡曲」と「Jポップ」の境目・違いを説明するのに有効な指標(かどうかは今後の検討課題)。


さらに

放浪する日本人の代表選手といえば「フーテンの寅さん」ですが、21世紀の日本人が「寅さんに最もふさわしい終焉の地」に選んだのは北国ではなく沖縄である(男はつらいよシリーズの一番人気は『寅次郎ハイビスカスの花』)であるのは、これどうした事かと。
平成の日本人は昭和の日本人とは人種が違うのか?


などなどと、

花にちなんだ雑考(および脱線)をつらつら巡らす2007年ですが、写真の方はそういうのは一切関係なく例年通り、お濠っぱたの花の画像がたーっと並んでるだけです。

2007/11/17


使用カメラはRICOH G4 wide、、最後の9ページ分だけは新しく買ったRICOH R4を使用しています。




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